娘が8歳になった。早いものだ。
と同時に、この書き出しで一年に一回、更新するのが年間行事の様になってしまっている。
「もう少し更新したい」と切に思っているが、「文章に起承転結を強く求める性格」からか、オチのない話を書くことができない。
「今日これこれこんなことがあったんだよー」的な話なら、毎月のように書くことが、ナマケモノの僕にだって、できるはずだが、自分の書いた話の一番厳しい読者であるもう一人の自分が「オチは?」と冷たい目で囁いてくるのだ
* * *
というような、言い訳は置いといて。
娘が、とうとう8歳になった。
昔から読んでいただいている方にはピンと来る人もいるかもしれないが、「父ちゃんのお膝の上に乗ることを卒業する年齢」になったのだった。
そこのところどう思ってらっしゃるのか、本人に聞くと、
「その約束は既に12歳まで延長すると通達している」
と、おすまし顔で彼女は平然と言ってのけた。
従妹のお姉ちゃんが12歳まで父ちゃんのお膝に座っていたから自分にもその権利がある、といういつもの主張だ。その従妹のお姉ちゃんは12歳の時に一回だけ僕の膝に座ったきりなのだが、その反論は受け入れられなかった。
本を読むとか、宿題をする時、風呂上りの夕飯前なんかに、膝に座りに来る。
「ちょっと、スマホどけて」
「何でや」
「ええから」
座卓前で胡坐をかいてスマホを見ている僕の膝に、よいしょっと座る。何ならひざ掛け布団と今読んでいる本を持って来て座る。
マンガ読み放題のスーパ銭湯の風呂上がり客のようだ。
最近では身長が伸びてきたせいで、首が疲れるらしい。僕の腕をヘッドレストのように首を預け、横向きに寝転がっている。もう「膝に座る」レベルではない。リクライニング座椅子だ。何なら座るとき「ふぅ」と言う。おおよそ小学校低学年らしくない。
”またまた。お父さん、娘さんに甘えられて嬉しいんでしょ?”
そう思われる向きもあるかもしれないが、そもそも僕は、悲しいかな娘に甘えられて喜ぶような人間ではないのだ。やせ我慢じゃないもん。本当だもん。
僕が娘にできることは、僕が「正しい」と思うことを娘がしたときや、娘が言ったときに、本気で褒めることだ。娘を心から褒めることができた時は、嬉しい。
僕の信念において間違ってると思うことを、娘がしたときや、娘が言ったときに、本気で怒る。その時は少し寂しい。
正直、娘に好かれたいと思っていない。好かれないようになったら、それは仕方がないと思う。彼女はこの世に一人の、個性を持った人間なのだ。
彼女が僕を嫌うのであれば、彼女が僕を嫌うという個性の方を、尊重したい(もちろん嫌われるのは悲しい)。
ただ、娘が死んだら、僕は死ぬほど悲観するだろう。想像するだけで気が狂いそうになる。
娘がもし強盗などのアウトサイダーに捕まり、僕が身代わりになれるのであれば、喜んでこの身を差し出そう。
「はっはっは! 騙されたな、お前も娘も人質だ!」
ぬう。なんて卑怯な奴。
そんなこと言われて娘がやられたら、そいつを殺して僕も殺人者に身を落とすだろう。倍返しだ。
おおよそ、法治国家に生きている人間としては間違っているだろうし、人権弁護士にワイドショーで批判を受ける主張だとは思うけど。
もちろん、思ってるだけなので、実際に起きたら、体が動かない可能性もある。そうなっては嫌なので、時々想像しては脳内でシミュレーションしているだけなのだが、その脳内シミュレーションで時々ホロリと涙が出そうになる。
歳をとったものだ。
* * *
昔、作家の田口ランディさんが、「人を何故殺してはいけないのか」という質問を子供がしてきたら、どう答えるかというエッセイを書いておられた。一回どこかで書いたかもしれない。
その問いかけに、「感情」で答えることができるのは親だけなのだ、親だけは「感情」剥き出しに全力で答えてあげないといけない、というようなことを書いておられた。
「理屈」で分らせようとするのではなく、「感情」で訴えかけなさいと。
人は、とかく「理屈」に走りがちである。とくに男親は理屈に走りがち。「理屈」より「感情」が低く見られがちな世の風潮もある。
「感情的になるなよ!」
と感情的に言ってくる輩もおられる世の中だ。
理屈で回答できる「問い」もあれば、感情でしか回答できない「問い」も、またある。
とかく子供は、低年齢であるほど、「感情」での回答しか受け入れることができない。
「人を何故殺してはいけないのか」という質問を子供にされて、そんな質問をする我が子を怒り狂って泣き叫び、叱咤することができるだろうか。なかなか難しい話だ。
嫌われたくない。避けられたくない。友達のような感覚で、息子や娘と楽しくつきあいたい。
そういう気持ちも、分からなくはないけれど。
それは子供を想ってるのか、自分を想ってるのか。努々考えた方が良い。
僕だってそりゃ娘には可能であれば嫌われたくない。なので正しくは、嫌われても仕方がないと覚悟しているのだ。
もし神様が物々交換で、僕を嫌うことの代償に、娘が友達と楽しく生きて、美味しい物を食べれて、よく眠れて、絶えず笑っているのであれば。
こんなに安い買い物はない。そこだけは本気で、そう思う。
* * *
最近、お風呂に一緒に入ると。
風呂上り、娘は決まって僕に「透明なパンツ」を手渡す。
「はい父ちゃん。透明なパンツ」
「おお、ありがとう。そうそう、こうやって透明なパンツを父ちゃん履くと・・・ちんこ丸見えやんけ!」
ケタケタケタと娘が笑う。小学校低学年は、ベタなほどよく笑う。
高校時代演劇部に入っていたので、とっさに恥ずかしげもなくベタな演技ができる能力を手に入れた。
こんなところで役に立つとはな!
娘が調子に乗って、
「はい父ちゃん、透明なタオル」
「はい父ちゃん、透明なシャツ」
「はい父ちゃん、透明な靴下」
連発してくる。ネタが切れる。結局僕は「いい加減にしなさい!」と怒る。
「父ちゃんボケてー。お願いやからボケてよー」
「えーい。いい加減、お前がボケろ!」
この子が生まれてきた時に、まさかこんな「おねだり」を言う娘に育つとは思っていなかった。