この春小学校に入学した娘が、ちょくちょく学校を休んでいるという。
週の半ばになると、「色々と疲れる」のだそうだ。
金曜日の夜遅く。
大阪から奈良の山奥へと車で帰り、翌土曜日の朝に娘と顔をあわせる。玄関横の襖をガラリとあけると、畳の部屋でテーブルの下に隠れている一体の人型娘。それはもう、必ず隠れている。
それを無視したり、足蹴にしたり、茶番劇で相手をするのが土曜日朝の定番だ。娘の機嫌が良ければ、一週間に起こった出来事を教えてくれる。
先日、
「父ちゃん。二週間、一回も休まんかった!」
鼻からフンフンと出ている煙が見えそうなほど、自慢された。
「何に?」
「小学校にきまってるやろー!」
「お、おう。そうか・・・偉いな」
得意満面の娘を見ていると、
「父ちゃんは病気以外で一回も小学校を休んだことないぞ」
と威張っても、全く無意味だということが分かる。
なので言わない。娘は自慢しているのだから、良い気分にさせるため、褒めて調子に乗らせておくべきだ。こういう思案を「忖度」と言うのだろうか。そろそろ死語か。
本人は、休まず学校へ行くことを、「良いこと」と思っているようである。
そういえば娘が休んでしまった日、家でずっとモジモジしていた。休むのは「悪いこと」だと思っている様であった。
夕方、小学校から近所の同級生が帰ってきたので、「皆帰ってきたみたいだから、遊びに行けば?」と言うと、「嫌!」と拒絶していた。そのくせ縁側に立って、皆の様子をずっと覗いていた。
これは僕の意見であるけれど。
学校へ休まず行くことは、必ずしも「良いこと」ではない。
ただ、休まず学校へ行くことは「偉いこと」ではあると、個人的に思う。
学校へ行かず、休むことは「悪いこと」ではない。でも「良いこと」でもない。中間の「普通のこと」かと言われると、そうでもない。
他人が決めることではないし、他人がとやかく言うことでもない、と思っている。
「学校は楽しいよ。友達と一緒に学び、遊ぶことは面白いよ」
どこかで聞いたような、それでいてよく聞くこの意見は、一般的には「正しい」と思う。でも決して「正解」ではない。万人に当てはまる万能調味料ではないので、美味しいと思う人もいれば、不味いと思う人もいる。
なので、それを人にグイグイと人に押し付けることは良くない。うんこを相手に擦り付けてるようなものだろう。ステレオタイプな価値観だし、旧弊的な思考回路から脱却できていない。何より窮屈で息苦しいではないか。
「学校は楽しくない。友達と一緒に学び、遊ぶことは面白くない」
そう思いながらも、死ぬほど我慢して学校へ通う子がいたら、その子は「偉い」と思う。でも「正しい」のかどうかは、誰にも決められない。
現実の小学校では、なかなかそういうことを教えてはくれない。多様性を認める教育はするけれど、生徒個人個人の多様性をいちいち認めていては効率が悪い。最大公約数的にまとめようとするのが、「学校」という組織だ。
小学校を一週間休まずに行くことが「体力的にしんどい」と言うのであれば、休んでもいい。今は昔と違う。休んだからと言って昔のようにそうそう、どつかれることもなかろう。
小学校の勉強なんぞ、後からいくらでも挽回できる。もっとも、本人のやる気があれば、という話だけれど。
本当のところ。親の正直な思いとすれば、一日も休まず、元気に小学校へ通って欲しい。多少辛いことがあろうとも、工夫して乗り越える力を養って欲しい。
ただそれは、こちらの勝手な「願い」であり、世間体を多少なりとも気にした考えであり、娘本人の為を考えた発言かと問われると、甚だ疑わしい。
『みんなちがって、みんないい』
詩人・金子みすずはそう詠っているけれど、その言葉を現実社会で、実感することは大変難しい。
誰もがこの言葉は「正解だ」と思っているけれど、心の底から実践することができなくて、座りの悪い経験をしている――からかもしれない。
多様性を受け入れず、フワフワした幽霊のような「規律」を守ろうとする社会では、学校を休むことは「悪いこと」と決めがちだ。誰も直接言わないけれど、実体のない幽霊の様に、その「規律」を何となく支持していて、何となく押し付けてくる。学校を休まない自分は「正しい」とか「偉い」とか、そんな評価に囚われがちな社会は昔も今も、確実に存在している。
というわけで。
「病気以外で一回も小学校を休んだことない」という誰かさんは、「二週間、休まずに小学校行った」という娘より、偉くも何ともないということになる。
何よりも娘は、僕にだからこそ、自慢したかったのであろうから。褒めてもらいたかったのであろうから。
次に娘が「二週間、休まずに小学校行った」と僕に言ってきたときは、
「やったな、イエーイ!」
ハイタッチでもして、まずは一緒に喜んでみたいと思う。