我が家では最近、夕刻になると「鬼」が出没する。
* * *
娘が夕方になると言うことを聞かず、凶暴化するという話である。
安心して欲しい。村人の生け贄は今のところ親だけだ。
娘は来年から、小学生になる。
保育園でずっとお昼寝をしてきたので、夕方になると眠くなる傾向は前からあった。だが、成長し体力がつくにつれて、長時間起きていられるようになっていた。
とはいえ、眠いのは眠いらしい。
眠くなったら10分ほど仮眠を取って、シャキッと起きる方が機嫌よく一日過ごせるのだが、娘は「自分はもうお姉ちゃんなので、お昼寝しないことが大人だ」という、昭和っぽい間違った感覚を持っていて、フラフラになりながら無理やり起きているのだ。
おそらく自我が制御できない状態になるのであろう。そのうち喜怒哀楽が激しくなって、親に八つ当たりをし始める。
「お腹すいた?」
「すいてない」
「じゃあおやつはいらんな?」
「いる」
「眠い?」
「眠くない」
「じゃあ、そのまま起きとけ」
「キー!」
反対の事しか言わなくなる。
「天邪鬼」という言葉は、娘の為に誂えたのではないかと思うほど適切な表現だ。
今も昔も子供は変わらないという、証左なのかもしれない。
* * *
今年の夏は鬼、もとい娘とよくプールに行った。
幸いにも娘は水を怖がらす、泳ぐことが大好きだ。車で二人、市民プールなどに出かけた。
中には、ウォータースライダーのあるプールもあった。滑り台が大好きな娘に遊ばせたいと思ったが、身長制限があることが多かった。
年齢の割には身体が大き目の娘である。ダメ元でチャレンジしてみては、5cmほど足りなくて係の人に止められた。娘はガッカリしていた。
僕らの子供の頃はそこらへん、親が付き添えば「おまけ」してくれていたものだが、最近は事故防止のため、線引きが厳格にされているようである。
「惜しかったな。あとたった、5cmやん」
「うん」
「このままお姉ちゃんになれば、来年は滑ることができるよ。来年は一緒に滑ろう」
「お姉ちゃんになったら、身長伸びる?」
「今、白ご飯時々残すやろ? ちゃんと食べないとまた来年スライダーすべれないよ」
「ごはん、ちゃんと食べる」
大人はこうやって、ずるく子供をしつけるけれど。
子供はいつだって、好きなことに全力投球だ。
ちなみに、ウォータースライダーの身長制限は、おおよそ120cm。
遊園地のジェットコースターとか、その他様々な遊具の、身長制限もこのあたりだった。
娘はそのため、この身長に届くことを、「大人へのステップ」と捉えているようだった。
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120cmの身長制限を「大人へのステップ」と娘が捉えている事が、他にもある。
近所のよく行くお風呂屋さんに、「身長120cm以上の児童の男女の混浴は、ご遠慮下さい」と張り紙に書いてあるのだ。
うちの家は冬激烈に寒いので、月間パスポートを買って、よく家族で入りに行っていた。
娘は、週末しか一緒にいない父ちゃんと、男湯に入りたがった。
「今日は、父ちゃんと入りたい」
「いや、もうお姉ちゃんなんやから、母ちゃんと一緒に入りなさい」
「嫌、父ちゃんと入る!」
娘と入るとつきっきりになるので、ゆっくりと湯船に浸かり温まることができない。少し前までなどは、娘はぬるい湯にしか入れなかったので、お風呂屋さんから出ても寒くてガクブル震えていた。
疲れているときは正直、一人でゆっくり入りたいと、思うこともあった。
最近の娘は、お風呂屋さんでもよく癇癪を爆発させる。
お風呂に行く時は夕刻。鬼の出没時間帯である。
スーパー銭湯では、さまざまな割引制度があるので利用する。その場合、販売機で入浴券を買わず、受付の従業員に割引券を見せて、お金手渡しで買うことになる。
我が家の鬼は、お風呂屋さんに行くと、販売機にお金を入れてボタンを押したがる。それができないと、癇癪を爆発させて「ボタン押したかった」と泣きわめく。
「いい加減にしろ! それやったらお前だけ風呂に入らなくていい!」
もちろん、そんな正論は鬼には一切通用しない。なにそれ美味しいの状態だ。
結局、気分が落ち着いて風呂に入れるようになるまで、一時間かかったこともあった。
ある時は、割引券を見せた後に気が付いたため、
「子供の分だけ割引きは結構です。販売機で買います」
「え? 子供さんも、50円割り引きでこちらで受付ますよ?」
「はあ。でも、本人が販売機で買いたいみいたいなので」
「正規料金いただきますよ?」
「いやはあ、それで全然結構です」
受付のおばさんが気の良い人だったので良かったが、何故そんな無駄なことをするのか、少々理解不能だったことだろう。
* * *
その日も、お風呂屋さんへ向かう車の中で。
娘は「父ちゃんとお風呂入る」と言って聞かなかった。少々、機嫌が悪くなってきているようだった。
「そやかて、身長120cm以上やと、入れへんやろ?」
「まだ120cmやないもん。なあ母ちゃん」
「いま、身長何センチなん?」
後ろに乗っている奥さんに聞いてみる。
「さあ。一か月前に図ったときは、117cmくらいやったけど」
「そうか。じゃあ一緒に入ってええよ」
「やったー! 父ちゃん、一緒にぬるいお湯にずっと入ろ!」
「父ちゃん、ぬるいお湯は温まらなくて嫌なんやけど」
その日行くスーパー銭湯は、家から車で30分ほどのところにあった。お値段は少々高め。
うちの娘は、近所のお安いお風呂屋さんが嫌いだ。「場所が遠くてお高い」お風呂屋さんを主に好む。
まさに鬼だ。
お風呂屋さんに着いた。
靴箱に靴を入れ、入場券を買う。
奥さんから娘用の着替えを受け取り、男湯の暖簾をくぐる。
ロッカーを選んで、娘の服を脱がせる。次いで自分の服を脱いでいると、
「父ちゃん。身長図ってー」
見るとスッポンポンの娘が、脱衣所備え付けの身長計の前に立っていた。
「父ちゃん、まだパンツ脱いでないから、待って」
「早くパンツ脱いでー」
「はいはい・・・」
こんな場所で、機嫌が悪くなられたらたまつたものではない。そそくさとパンツを脱ぐ。
「きおつけの姿勢で立って。あご引いて・・・」
娘の頭頂部は、120cmを少し超えていた。
「120cm、超えてるぞ!」
興奮気味に、僕が叫ぶ。
「いくつ?!」
「ちょっと待て。122cmやな」
「すごい!」
「やったな、これで来年は、プールでスライダー滑れるな!」
「うん。やったー!」
スッポンポンの娘と、スッポンポンの中年男性が、風呂屋の脱衣所で、他人の目を気にせず、笑顔で抱きあって、大声で喜びを分かち合っていたのである。
その時、脱衣所の他のお客さんは、どんな気持ちでスッポンポン親子を見つめていたのだろうか。
「あ。でもちょっと待て」
一つ、大事なことに気付く。
「もうこれで、父ちゃんとお風呂屋さんには、入れなくなるな」
娘が少しだけ、悲しそうな顔をする。
「でも、福祉センターとお家のお風呂はええやろ?」と娘。
「福祉センターとお家のお風呂は、ええよ」
「じゃあ、それだけでいい」
「そっか。偉いな。今日はお店の人に黙って入ろうか」
「うん。父ちゃん、ぬるいお風呂に一緒に入ろー」
雪が降り出しそうな寒い夜だったけど。ぬるいお風呂に、娘の気が済むまで、一緒に浸かった。
湯船では、男の子がバシャバシャ泳いで周囲に迷惑をかけていたけれど、娘は我慢してお湯に浸かっていた。
「お外のお風呂に行きたい」
娘が言う。
お湯からあがり、無意識に左手を、下に伸ばす。
娘が僕の横につき、当たり前のように右手を、上に伸ばして掴む。
ぬるぬるの床を、二人で手をつないで、そっと歩く。
いままで当たり前にしてきた、日常の光景。そのうち一人で転ばないように気を付けて、歩ける日がくるだろう。
その日を心待ちにしている自分と、少しだけ寂しい自分。その両方の自分を、これから僕は、死ぬまで同居させ続けるのだろう。
一生涯のうち。娘と一緒にお風呂に入れる期間など、たかだか知れている。
身長が120cmを超えたからと言って、娘が急に「大人」になる訳ではない。
でも娘は、120cmを境に、できることが増えたこと、できないことがあることを、理解したと思う。
できることを知ること。
できないことを知ること。
子供の成長にとっては、どちらもとても大切なことだ。
それを意識できない親にはなりたくない。巡り巡って、子供に大切な物として還元されるものと信じて、そう心得ていきたい。
いつの日か、我が家の「鬼」も、出没しなくなる日がくるだろう。
「鬼」と一緒に過ごした日々も、振り返ってみれば、良い昔話になるだろうか。
娘と身長を図り、二人喜びあったこの日を、僕は忘れないでいたい。