季節が良くなってきたので、ウォーキングを再会してみた。
奈良市郊外のこの地域は、海抜500mの山間部にあるので、気温が都市部より5度ほど低い。半袖では肌寒いものの、少し歩けば汗ばんでくるので、そのまま歩き出す。
朝起きて自分の車を見ると、霜が降りている。やがてくる厳しい冬には、この霜が凍って動かなくなる。フロントガラスの凍結は、暖機運転をひたすら続けなければ視界が開けない。
想像しただけで陰鬱になる。今の過ごしやすさのまま、月日が流れてくれればいいのに。
稲刈り前の田園風景が広がる。風が快い。
今年は豊作だという。たわわに実った稲穂のせいで、台風が来たわけでもないのに稲が倒れている田が目立つ。
最近のコンバインは性能が良いらしく、倒れた稲でも、比較的楽に刈り取れると聞くが、それでもピンと起立している稲の方が刈り取りやすかろう。粒が大きく育つせいで穂先が重くなるということは、農家にとっては良いことだが(食味に関しては諸説ある模様)、結果として倒れてしまい刈り取りに一手間かかる。
見た目も悪い。観光で来たよく知らない人が見たら、ああ今年の田んぼは良くなかったのかな、と思うかもしれない。
固定観念の色眼鏡は、常日頃から外しておいた方が良い。だが、中々意識し続けるのも難しい。
「おはようございまーす!」
「ぬおあっ」
道端で唐突に出くわす、自転車に乗ったヘルメット中学生の挨拶に、まだ慣れない。
* * *
ウォーキングを終えて家に帰ってみると、庭先で娘が一人、僕の自動車の前で、くねくね必死に踊っていた。
ぱっと見、タコ踊りに見える。おしりも振っている。ははーん。さてはとうとう頭がおかしくなったか。
そっと近づくと、真剣にぶつぶつ何かを言っている。
「おっちゃらた、おっちゃらた・・・」
「何やってんの」
「きゃー!」
突然の父ちゃんの出現に、顔を真っ赤にして車の後ろに隠れる娘。
「何や、父ちゃんか。ウォーキング終わったんか」
「ただいま。何踊ってたの。たこ踊り?」
「違うわー! 『おちゃらた』やってたの」
「・・・おちゃらた?」
「うん」
「なんやそれ。知らんぞ」
「やったろか?」
と言うと娘は、再度くねくね踊りだしたかと思うと、
せっせっせーの、よいよいよい。おっちゃらた、おっちゃらた、おっちゃらた、ほい。
と歌いだした。
「ああ。『おちゃらか』か」
一文字違うだけで、随分印象が変わるものである。
「違うー! 『おちゃらた』!」
「・・・『おちゃらか』やろ?」
「『た』ー!」
「いや、父ちゃんが小さいころやってたんは、『た』やなくて『か』で・・・」
「違うでー! 『おちゃらた』であってんでー!」
こうなると、もう一歩も引かない。
「保育園で教えてもらったの?」
「うん」
「でも、先生もお友達も、『おちゃらか』って言ってたやろ」
「言ってないー! みんな『おちゃらた』って言ってたー!」
「ほう。みんながみんな間違えて覚えているということは口碑伝承的には面白い話やが、それは単にお前の耳が悪くて『か』が『た』に聞こえてただけでは・・・」
「おーちゃーらーた!」
涙目になると更に引かない。誰に似たのか。親の顔が見てみたい。
さてどうしたものか。
親として、きちんと一般的な昔遊びの代表作を教えるのが正解なのか。それとも今は、娘の機嫌を損ねないように、それで良いとお茶を濁して立ち去るべきか。
どちらも違う気がした。
「分かった。おちゃら『た』でええ。正式には『か』やけど」
「おーちゃーらーた!」
「ただ、お前の『おちゃらた』の方が面白いから、それでええ。父ちゃんが保証したる。胸張って『おちゃらた』を歌え。今後、我が家では『おちゃらた、勝ったよ、おちゃらたほい』にする」
「うん!」
「ただな、実はもういっこ『おちゃらか』っていうのもあんねん。お友達が『おちゃらか』って歌ってても、それは間違ってないから、絶対『間違ってる』って言わないこと。分かったか?」
「分かった」
「よし」
「だから、父ちゃん一緒に『おちゃらた』やってー」
「・・・お尻も振らなあかんのか」
「振らなあかん」
「分かった」
「せーの」
おっちゃらた、おっちゃらた、おっちゃらた、ほい。
おっちゃらた、勝ったよ、おっちゃらた、ほい。
おっちゃらた、負けたよ、おっちゃらた、ほい。
おっちゃらた、あいこで、おちゃらたほい。
ほほいのほい!(やけくそ)
休日の庭先。
お尻を振りながら踊りつつ、謎の呪文を唱えては勝った負けたと騒いでる親子を、近所の方々はどのように見ておられたのであろうか。
薄れゆく意識の中、(俺らの時は『あいこで』やなくて『同点』やったなあ)とか、(でもまた指摘したら面倒くさいことになるなあ)とか、(そもそも、『おちゃらか』ってどういう意味やねん)とか、思ったりしていた。
* * *
子育てには正解はない、と良く言われる。
間違えている子供の意見を頭ごなしに否定し、正しいと言われていることを教えること。
子供がしたいことや、言いたいことを尊重し、自由奔放さを受け入れて何も言わないこと。
どちらが正解で、どちらが間違っているとは、きっと言えない。
親がそれは間違っていると正しても、子供自身が「自分の意見の方が正解だった」と感じることもある。日がたって子供が成長し、「やはり自分が間違っていた、親の意見が正しかった」と顧みることもあるだろう。
親の教育など、自分勝手な「決めつけ」に過ぎない。
田植えをして育ち、頭を垂れて倒れてしまった稲のように。倒れているからといって、出来が悪いと決めつけ、思考停止になる方が怖い。
子供に限らない。
どんな人の意見も頭ごなしに否定することなく、話を聞いて咀嚼して、一緒に「正解」を考えてあげたい。
お尻を一生懸命振りながら、そう思った。
大昔。一般人は、文字を読めなかった。
読めなかった人々は、口から口へと物事を伝えあった。「口碑伝承」と言う。その過程で、オリジナルの言葉は、伝わっていく内に様々な変化を遂げて、地方へと伝播していった。
昔の遊びに、地方独特の歌詞や多様性が生まれた背景は、単なる「言い間違い」だ。しかしそれが地域に根付き、長く伝えられることで、その言い間違いは「歴史」になり、その地方においては「真実」となった。
現在。インターネットとマスメディアの影響で、情報はサーバに一元管理され、地方独自の昔遊びの歌詞は消滅した。
「おちゃらた」は別に、口碑伝承の成り立ちを考えれば、あながち間違っていた訳でもないのだ。
とまで言うのは、ちょっと親バカが過ぎるのかもしれないけれど。
笑いながらお尻を振って一生懸命踊っている子供は、みんな正解にしてあげたい。