娘が忍者を倒してくれなかった話。

「忍者、三人しかおらんかった」

保育園の遠足で、忍者村に行ってきた娘が、僕に言った。

「ほう。三人ね。少ないね」

「なんかな。おっちゃんの忍者が保育園クラスのウチらを案内してくれて、お姉ちゃん忍者も二人おった」

「そうか・・・ちょっとええ感じの観光バスツアーみたいやな。忍者の世界も、人出不足なんかもな」

僕がそう言うと、

「忍者の世界に人手不足って・・・」

奥さんがつぶやいた。

「おそらく姉ちゃん忍者はアルバイト契約か派遣なんちゃうかしら。技術職と同じく、忍者も専門職やから、それだけで食べていけるようにせんと、日本はダメになるで。忍者業界も、世間の流れに抗えず、移民を受け入れなあかんのかもな」

忍者の世界も、非正規雇用で人件費を削減し、バイトを雇い、中間管理職が現場へ出て働かなければないようだ。とんだブラック体質である。

などと、どうでも良い話で一回お茶を濁す。僕の悪い癖だ。

「世知辛い世の中やね。それで娘」

「何父ちゃん」

「前にお願いした様に、お友達と、その忍者を倒してきてくれたのか?」

「倒してない」

「何でや、あれだけ父ちゃん頼んだやないか! お前は、父ちゃんが忍者に殺されてもええんか!」

「そんなん言わんといて! だって、倒したら忍者さん可愛そうやんか!」

「可愛そうか! そうかそれならしゃあないな!」

とりあえず、娘にとって忍者村は、それなりに楽しかった様であった。

* * *

話を少し、巻き戻す。

娘が保育園の先生に怒られて、登園しなくなっていた。

ずっと行くのを楽しみにしていた秋の遠足にも、とうとう「行かない」と言い出した。

くだんの忍者村である。

僕の目前で、

「保育園のみんなと忍者村へ行っても楽しくない。行かへん。父ちゃんと母ちゃんと行くからいい。父ちゃんと母ちゃんとで行く方が楽しい」

と言い出した。

奥さんは色々、粛々と娘を傷付けないように、皆と行く方が良い旨、諭していた。

しかし我が娘は一度言い出したら頑として聞かず、人の意見に耳を貸さない。一体誰に似たのか、親の顔が見てみたい。

蚊帳の外みたいで寂しかったので、父ちゃんの出番かなと勝手に思って、人生の先輩として娘を諭すべく勝手に出動してみる。

「なあ、娘」

「何父ちゃん」

「忍者村、皆と一緒に行った方がええで」

「嫌。父ちゃんと母ちゃんとで行く」

「それがあかんねん。実は父ちゃん、忍者村にだけは行かれへんねん」

ひたすら真顔で、真剣に話す。

「・・・何で?」

「父ちゃんな。実はずっと前から、忍者に命を狙われてるねん。皆にはないしょやで」

「うそや」

「嘘やない。父ちゃん実は、おサムライやねん。おサムライはな、忍者に命を狙われてしまう運命やねん」

「運命って何」

「さだめ、やな」

「ださめって何」

「もう、そこは流してええわ。それでな、普通に生きてるだけで、そこらへんから手裏剣は飛んでくるわ、寝てたら槍でつつかれるわ、おちおち寝てられへん。お前は寝相悪くグーグー寝てるけどな。父ちゃんはいつもお前の隣で、忍者の攻撃をかわしてたんや。でもな、父ちゃんもずっと忍者と戦って生きてきたんやけど、もうおっちゃんやん?」

「そうやな」

「そこはすぐ認めるねんな。そうや。だからもう、忍者と戦ったら、負けてしまうねん。父ちゃんが、忍者にやられて死ぬのは嫌やろ?」

「嫌」

別にって言われていたら、しばらく立ち直れないところである。

「そやからな。お前と保育園のお友達とで力を併せて、忍者村行って、父ちゃんの代わりに忍者を倒してきて欲しいねん。お願い」

「嫌。父ちゃんと母ちゃんとで倒しに行く」

「分からん奴やな。父ちゃんは、忍者に狙われてるって言うたやないか。お前、父ちゃんが忍者に殺されてもええんか」

「それも嫌」

「皆で行って、忍者のおでこに手裏剣投げたらええだけやないか。やってみて。スコーンとおでこに刺さるから。手裏剣は折り紙で沢山作ったるから」

「嫌ったら、嫌」

「くそう・・・」

説得失敗。それどころか話は何が何だかよく分からない方向へ行ってしまい、娘の行きたくないという思いを覆すことはできなかった。

しかし遠足当日、行かない旨先生に伝えに行くと、強引にバスに乗せられて、結局忍者村には行ったらしい。奥さんによると、帰ってきたらそれなりに楽しかったと言っていたそうである。

そして。

楽しいには楽しかったが、それはそれとして、結局保育園へ行きたくない気持ちまで、変えることはできなかったという。

* * *

娘の先行きが不安だ。

女の子が興味を持つものに、あまり関心がないように時々感じていた。保育園へ行っても、他の女の子は長髪で細くて可愛らしい感じに育っているのに、うちの娘は何をしてもガサツで大雑把で時々「ガハハハ」と笑っている。

不安だった。

――このままでは将来、キャピキャピした立派なギャルになれないのではないか。

父として、そんな一抹の不安をぬぐい去れなかった。

この前も、うんこちんこと安易な笑いを取りにいくので、

「そんな安直な下ネタで笑いを取っても、大人になったら誰も笑いはせんぞ」

とたしなめたが、

「面白いからええの」

「うんこちんこで笑ってもらっても、それはお前の力やない。うんことちんこの持つ言葉のポテンシャルのおかげなんやぞ」

「何言うてるか分からん」

とむくれてしまった。

その内、島田珠代のように壁にぶつかって、自分自身の力で乗り越える日が必要なのであろう。男なんてシャボン玉だと、知る日が来るだろう。

この間など、

「父ちゃん、相撲取ろう相撲。10回とろう」

と言ってくるので、女の子なのに相撲だなんてと思い、

「お前・・・そんなん言うてて、将来立派なピチピチギャル(死語)になれるとでも思ってんのか!」

ほっぺをつねってみた。

「ピチピチギャルになんてならんでいい!」

もっともな返し文句に父親としてぐうの音も出なかったこともあった。

このようにガサツで大雑把な娘だが、ならば性格は竹を割ったようにサッパリしているのかと言えば、人一倍泣き虫で、人一倍繊細なガラスのハートを持っている。

誰に似たのだろう。本当に親の顔が見てみたい。

秋の遠足の前。

最近娘は、保育園で泣くことが増えてきたらしく、先生に「いい加減に泣くのを止めなさい」的な叱咤激励をされたという。娘はそれを叱られたと思い込み、以降保育園を休みがちになってしまった。

僕に少し似て、感受性が強いのかもしれない。

必要以上に人を気にして、相手が怒ってもいないのに、「怒っている」「拒絶された」と思ってしまったのかもしれない。

そんなに簡単に、人は人を、拒絶することはないのに。

娘は、先生を「拒絶」し、保育園のお友達をも「拒絶」してしまった。

父ちゃんと母ちゃんは、自分を絶対に「拒絶」しないと、知っているのだろう。それはそれで正解だし、間違ってはいない。自分の居場所が確保されている、親という存在に、安心しているのだろう。

 

人には、「居場所」が必要だ。

安心して眠ることができて、安心して泣くことができて、安心して笑うことができる。

そんな、「居場所」が。

自分で作ることもあれば、人から貰うこともある。そこにいれば、自分を守ることができる。守られていられる。自分を認めてもらえる。自分が認めてあげることができる。

孤独にならないための、「居場所」。

できる限り、沢山あった方がいい。

家庭でも、友達同士でも、恋人同士でも、会社でも、仕事場でも、学校でも、サークル活動でも、老人会でも。

保育園でもいい。

別に、娘のために、僕が忍者を一緒に倒しに行っても構わなかった。それはそれで、親として必要とされていることで、とても嬉しいことだ。

でも、娘が仲間たちと一緒に、忍者を倒しに行ってくれた方が、僕は嬉しかったのだ。

娘には、孤独になって欲しくない。

彼女にはこれから、沢山の沢山の、自分の「居場所」を、作って欲しい。

僕はやがて、君より先に確実に死ぬ。

忍者に殺されるかもしれないし、病気で死ぬかもしれない。僕は、君の「居場所」になってあげることはできなくなる。

父ちゃんと母ちゃんと、忍者を倒しに行けなくなる日は、必ずやってくる。

その時娘には、大勢の仲間と一緒に、忍者を倒しにいけるだけの、「居場所」があって欲しい。

そんな「居場所」を沢山作って、孤独に打ち勝つ、武器を持って欲しい。手裏剣でも槍でも、何でもいい。

そのためならば、娘にとっての「僕という居場所」がなくなってしまおうが構わない。僕の「孤独」と引き換えに、娘の「居場所」ができるのならば。

喜んで僕は自分の「孤独」を支払い、娘の「居場所」を買いとるだろう。

娘は、「そんなん言わんといて」と言うだろうか。

それはそれで、嬉しかったりもする。

人間とは、相反する感情を同時に併せ持つ。やっかいな生き物だとつくづく思う。

* * *

「父ちゃん。折り紙で手裏剣、沢山作ってや。前に折ってくれるって言うてたやろ」

にやっとした顔で、娘が僕に言う。

「えー。面倒くさい」

「そんなん、言わんといて」

最近の娘は、この言葉をよく使う。お友達から色々気にすることを言われることが多くなり、使うようになったのかもしれない。

「だって父ちゃん、手裏剣折るの上手やん」

上手なのではない。そらで折れるものが、やっこさんと手裏剣しかなかっただけの話である。

「確かに折ったるって言うたけど・・・忍者倒しに行ってくれへんかったやろ。自分で折れや」

「作ってみたけど、上手に折られへん」

「じゃあ、教えたるから父ちゃんと一緒に折ってみよう。覚えたら、お友達にも教えてあげるねんで」

「分かった」

僕が全部折ってあげることは、僕の自己満足にしかならない。

彼女が自分で折ることができるようになれば、やがて他の人に、折ってあげるようになるかもしれない。

子供が親の手を借りず、自分でできるようになるということの本質は、そういうところにあると思う。

自分でできるようになるということは、相手にしてあげることができる、とも言える。

自分の「居場所」を与えてもらうばかりではなく。

自分の「居場所」を作ることができるように、なって欲しい。

「・・・そうやない。そこはこういう風に折るの。父ちゃんの折り方、ちゃんと見ときなさい」

「あー。もう面倒くさいなあ。やっぱり父ちゃん全部折って。そんで手裏剣投げ合いっこしよう!」

現実はまあ。

こんなもんではあるのだけれど。