「はっしるまちを、みっおっろしてっ!」
保育園の運動会の入場ソングで、斉藤和義の『歩いて帰ろう』がかかっていた。
「・・・何で、斉藤和義かかってるんでしょうね?」
「さあ・・・」
斎藤さん本人が歌っているのではなく、そこは保育園なので、小さい女の子が数人で元気よくカバーして歌っている。
それは良いとしても、「この歌詞を女の子に元気よく歌われても」感がぬぐえない。小雨降る中強行開催された運動会に、とても似つかわしくない。
「いっそぐひとにあやつられっ! みっぎもひだりも、おーなーじーかおっ!」
「・・・」
JASなんとかさんが怖いのでこれ以上書かないが、気になる方はネットで調べて欲しい。
斎藤さんとしてもこの歌詞の意味は、毎日生き急いでいる人に、「それは仕方がないとしても、たまにはゆっくり生きてみようぜ」という投げかけのはずである。歌詞中の「今日は」という点は、「生き急ぐことを否定していない」言葉となり、「僕は」という点が、「他人にそれを押し付けない」言葉となる。
年端も行かない女の子に「生き急ぐな」という曲を元気よく歌わせるのもどうかと思うが、それを保育園児の運動会で入場ソングとして聞かされるのもまた乙な違和感がある。
何てったって、彼ら彼女らは、放っておいても生き急いでしまうものであり、その中から急速に経験を取捨選択して成長する生物なのだから。
おじさんはそう思うがいかがか。
* * *
もうすぐ長年通っていた保育園(正確にはこども園)を卒園し、娘は来年から小学校へ通う。
毎年この運動会に参加しては、超絶恥ずかしがり屋の娘に赤っ恥をかかされてきた。
親子ダンスに参加しては父ちゃんと手を繋ぐのを拒否。大泣きしている娘をあやすことを二年繰り返す。
年長さん最後の年は、目玉の親子リレーというものがあるらしい。保育園児チームと、その親のチームで対抗リレーを行うというもの。ハンデ付き対抗形式を取るものの、一応走る順番は一緒ということらしい。結構盛り上がるので、目玉競技になっているそうな。
それに出ろという。
「・・・父ちゃんは、お前に二年連続で泣きわめかれて、恥をかいています。なのでもう出たくないです」
「嫌ー! 父ちゃん出てー!」
「毎年そうやって出ろと言うけど、いっつも泣きわめくやないか!」
「今年は泣かないー!」
「信用できるか―!」
そうは言っても出ないという選択肢はないのが、娘を持つ父親の辛いところ(分かっていただけると思うが)。
娘は走るのが遅い。
脚力はあるが、短距離走向きではないようで、毎年かけっこは最後の方だ。父親と同じで、長距離向きなのだろう。
来月の地元のマラソン大会に備えて、減量とトレーニングを重ねている僕ではあるが、短距離を走ると死ぬほど息が切れる上に、最後の方で足が上がらなくなる。
運動会当日。
娘が出ていない時は現場を抜けて、近くの道路わきで走ってみた。息が切れる。やばい。どうしよう。やっぱ参加しなけりゃ良かった。
「親子リレー参加の父兄は、入場門まで集合して下さい」
場内放送が鳴る。
入場門前に行くと、園児は一列に並び、父兄がその横に並ぶ。
娘を見つけて近付くと、いつもの様に恥ずかしがった後、ぷいと横を向く。横を向くものの、泣き出したりはせずにおとなしくしているのは成長の跡か。
「おっちゃん、前に見たことあるー」
後ろの女の子が僕に声をかけてくる。
「お迎えとかで見たことあるんかな? 今日はおっちゃん、負けへんでぇー」
はははと娘の後ろの子が笑うことで、娘も少し笑顔になった。
親子リレーの形式は、父兄がトラックの外周を走り、園児は内周を走る。それしきのハンデで成り立つのか? と思って後ろのお父さんに聞いてみる。
「あのー、よく分からないんですけど、これって本気で走って良いんですか?」
「いや、去年のを見てると、良い塩梅に調整しながら走るみたいです。園児が速かったら負けないように、遅かったら来るまでゆっくり、みたいな」
「はあ。良い塩梅に」
「お父さんだけじゃなく、お母さんも混じってますからね。最後には速い子が揃ってるので、良い勝負になるって感じです」
なかなか難しい戦いである。ウォーミングアップして汗をかいているのはどうやら自分だけみたいで少し恥ずかしい。
僕と娘は6番目で、すぐに出番は回ってきた。
バトンを受け取る。
とりあえず半周くらいは全力で走ってみて、娘が来るのを見て調整してみようと思った。
トラックの途中まで来て振り返る。
娘が大泣きしながら走っていた。
僕は振り返り、歩を緩め、立ち止まって、苦笑いするしかなかった。
「な、何泣いてるの!」
手を差し出しても、娘は振り払う。かくして僕ら親子は、大泣きする娘に並走する形で、同時に次のランナーにバトンを渡した。
「イヤー!」
「何で泣くねんな!」
嫌がる娘を抱っこして担ぎ、「よく頑張って走ったな!」と、ねぎらいの言葉をかけつつ、内心では「泣き止んでくれー、恥かかせないでくれー」と祈っていた。保育園の先生も、「よく走ったね」と娘の頭をなでてくれた。
最終的には、大人の手加減ミスで、子供に負けるというのが、毎年の恒例のようで、今年も同じ結果となった。
それを見て、娘は大喜び。
かくして今年は、それほど大恥をかかずに済んだ。
大泣きしながら走る娘と、苦笑いしながら、同じ速度でゆっくり伴走する父親。
他にそんな親子いなかったので、とりあえず観衆への見せ場は作れたと思われる娘の最後の運動会は、こうして幕を閉じた。
* * *
「あのね」
「何?」
「何でもない」
そういう会話をされたとき、若い頃なら、相手を問いただしていただろう。相手が自分に言うことを隠している。相手に信用されていない。そう思いながら、相手が何を言いたいのかを、聞き出そうとやっきになっていた。
そうやって無理やり聞き出した「言葉」は、その人の本当の気持ちではないかもしれない。そういうことに、当時は気付けずにいた。
その人の心の内に浮かび上がった沢山の「感情」は、「言葉」に置き換えるのに時間がかかるのかもしれない。「言葉」に置き換えてみたら、矛盾していてとても使えたものではないかもしれない。矛盾しているから、その人は恣意的に「言葉」を捻じ曲げるかもしれない。
捻じ曲げた「言葉」は、自分の気持ちとズレているから、不安定かもしれない。不安定な言葉を、自分の気持ちとして用いたくは、ないのかもしれない。
急かして引き出した言葉は、そんな時、果たしてその人の本当の気持ちを言い表せているのだろうか。
「好き」と「嫌い」という言葉は、時に同居するものだ。
感情をすべて、「言葉」にできないから、人は泣いたり笑ったり、怒ったり。振り向いたり、立ち止まったりするのだろう。
今は、それでいい。
言葉がいつの日か浮かび上がり、その人が「自分の気持ちはこの言葉だ」と思えた時に、言えばいい。
もしくは日々の忙しい喧騒の中に、埋もれて消えてしまっても、別に構わない。
そう思えるようになったのは、年を取ったからだろう。
娘はあの時、どうして泣き出したのだろうか。
「とうちゃーーーん!」
一足先に家に帰っていた僕に、娘が満面の笑顔でタックルをかましてくる。
相変わらずの内弁慶。血統がそうさせるのだろうか。
「なあ。何であの時、泣いたの?」
「んー」
「父ちゃんが、先に走って行って、悔しかったの?」
「うん」
「それとも、先に行ってしまって、寂しかったの?」
「うん」
「どっちやねん」
「よう分からん」
「よう分からんか。それなら、それでええか」
彼女は、泣きたかったのだ。
走りながら、色々な感情が沸いて、泣いたのだ。
それがすべてである。
僕ができたことは。
立ち止まって。振り向いて。歩を緩めること。
ゴールした後に嫌がっているけど抱きかかえ、笑いかけ、勇気付けること。
娘が泣き止むまでに、保育園の先生が褒めてくれたり、友達が近寄ってきてくれたり、みんなで勝利したり、周囲の助力があってのこと。
彼女が泣き止んで笑ったのも、色々な感情が沸いてのこと。
つまりはまあ、そういうことなのだ。
疲れたり、焦ったり、とまっどたり、うまくいかないときは。
「歩いていこう」と、自分にとりあえず言い聞かせる。
歩幅が違うなら、どちらかがあわせればいい。
答えはきっと一番でゴールすることじゃないんだと、知ってさえいれば。
いつかは、笑える日が来るように、きっと世の中はできている。