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忘却の彼方。

電車に乗りつつ、思いついた話のネタがあったのだけど。

一旦家に帰り。

風呂に入り、バイクに乗ろうとしたら一週間ぶりだったからかキックしてもエンジンがかからず、畑に雑草を刈りに行ったら長袖の上からでも蚊にさされ、サツマイモの葉を雑草と間違えて刈ってしまい、いつの間にか畑に住み着いていた野良猫には嫌われ、いつの間にか隣の家には「売出し中」の看板が立てかけられ(日当たりが激烈に悪いので売れないに決まっているのだが)。

などなどしているうちに、内容を忘れてしまった。『忙殺』というらしい。よってそのネタは書けなくなった。うまくいかない世の中である。

ブログを放置して一年が経った。

その間に娘は成長し、保育園にも通えるようになった。

初日、お母さんと別れるだけで泣きわめき、昼寝の時間にも母親を探して泣いたため、呼び出されて午後二時に帰宅という日々が続いたようである。

ただ、昼ご飯とオヤツだけはキッチリおかわりまでしていたそうな。そこは、親に似なくて良かったところだ。

相変わらず、PC関係の仕事をしていると自己紹介すると、「Webはできるんですか」と聞かれる。

プロではないが全くできない訳でもない。返答が難しい。「できない」というのは悔しいが、できると言って「金出すからやってくれ」と言われても困る。

ホームページを作成する会社は知っているが、お金を出してまでやる人は少ない。紹介すると「そこまでは」と逃げ腰になる。中途半端にお金をかけると、中途半端な結果しか出ない。

こんなことを書きたかった訳ではない。

多分、最初に書きたかったネタは、田舎暮らしについてのことだったのだと思う。

「のんびり田舎暮らし」というキーワードがあるが、田舎暮らしほどのんびりできないものはないと思っている。

お金があれば、田舎暮らしでものんびり暮らせる。誰とも接触せず、地域の行事にも参加せず、地域の一番端っこなどで広い土地を買い、家を建て、車を個人の分だけ買い、自分勝手に暮らせば良い。

身内でいがみ合って当主が殺されでもしたら、ミステリー好きな小説家が喜びそうだが、案外そういう所に住みそうなのが、ミステリー作家だったりしそうである。

お金がほどほどであれば、田舎暮らしは地域の力を借りねば暮らせない。野菜を時々分けてくれたり、トラクターを貸してくれたり、家を安く住まわせてくれたり。

それが良かろうが悪かろうが、いきなりやって来た一元さんでは難しい。「誰々さんの何々でそんな感じで知り合いの人」でも良いので、繋がりがあれば安心してもらえる。何気なく地域を散歩しようものなら、「あいつは誰だ」という噂が簡単に立つ。

でもそれは、田舎でなくても都会も同じだ。横に来た人を知らずに住めるとよく言うが、知っていた方が安心することもある。ケースバイケースだろう一般論にするなと思う。

多分、こういうことを書きたかったわけでもない。

『忘却』している。日常生活で色々とありすぎて、文章にするときには、出来事を忘却してしまっている。

忘れているということは、それはそれで幸せなことなのかもしれない。

老化防止のために、とりあえず何か書いてみた。

子供が生まれていた。

しばらく、娘が生まれていた。

「子供が生まれたら責任感が出るよ」とか、「子供を好きになるよ」とか、「女の子が生まれたらお父さんメロメロ(死後)だよ」とか。そういったベタな展開が好きではない性格なのか、それほど変化がない自分に少々びっくりしている。

遺伝子の予定通り、器量で世を渡れる人生はこの先約束されていないかもしれない。ストレートの球速で勝負せず、バッターのタイミングを崩してから外角に逃げるスライダーで空振りが取れるような、そんな娘に育って欲しい。

自分が「父親」になることに自信を持てず、自分の優秀でもない遺伝子を受け継がせる現実に、あまり前向きになれずにいた。

子供ができたらできたで、「こんな世の中に産まれてきて、君本当に将来大丈夫?」という不安な気持ちがないわけでもない。子供からしたら、勝手に産んでおいて何を言うと、怒られそうなのだけれど。

BIGINの歌に、『未来の君へ』という曲がある。

昔、関西ローカルの深夜番組で彼らが歌ったその詩は、くすぶっていた自分の心に深く突き刺さり、情けなくて悔しくてボロボロ涙が出た。

「自分は何をやっているのだろう」

未来の君へ何かつなぐことさえ想像できなかったあの頃の自分も、未来の君がここにやってきてくれた現在の自分も、何ら変わらず同じ自分であるということが分かるようにはなった。

ただ自分にできることといえば、顔を見つめると笑ったり泣いたりしてくれるこの子のために、「自分にできることは何があるだろう」と、死ぬまで考え続けることではないか。そう考えるようになった。

歌詞の通り、弱気になったときは、「全ては、同じ方向に回るのだ」と、思い出すことにしよう。

親になって、忘れてはいけないと心に刻むのは、「子供の人生は、子供だけのもの」という事実だ。

一見、突き放した言葉に思えるが、「この子のためだから」という言ってしまいがちな言葉を隠れ蓑に、親のエゴを押し付けるようなことをしてはならない。

多分それは、とても難しい作業なのだろう。

親になる心構えは、昔から深見じゅん作『ぽっかぽか』を繰り返し読んでシミュレーションしてきた。

その中で何度も自分に言い聞かせたセリフがある。

「子供は産むんじゃない。やってきてくれるんだ」
「ぼくたちは、それを受け止めるだけなんだ」

宮部みゆきの昔の小説にも学んだ言葉がある。親に捨てられ、孤児であることを知り落ち込む主人公に、同級生の友達が投げかける一言。

「この前読んだ本に書いてあったんだ。知ってるかい? 子供はみんな、『社会の子』なんだってさ」

自分の子供は、自分たちだけの子供ではない。ひとりよがりな子育てになることのないよう、至極の言葉として受け入れていこうと思った。

この子供一人だけで、人生生きていくわけでは決してないのだ。

* * *

おお娘よ。

裕福でもなく、暇もなく、何だかパッとしない僕ら夫婦の元に来てくれて、わざわざどうもありがとう。すまない。気ぃ使ってウチにやって来てもらって、何だか悪いね。

将来どうか、「貧乏クジ引いた」とか怒らないで下さい。

優しくて、笑顔が絶えない子に育って下さい。

あなたが悲しいときは、お尻出したりへそをつついたり卑怯な手を使ってでも、父さん色々頑張って笑わせてみますから。