タイミングが悪い話。

介護の話を、少し書いておきたい。

左手左足が動かなくなったにもかかわらず「病院に行きたくない」と駄々をこねる81歳の老人(父)を、タクシーに乗せて脳神経外科へ連れて行き、診てもらった医者に「即入院」と宣告されたのは、2017年の11月初旬。あれから四年が過ぎた。

紆余曲折経て、父は某所の老人介護施設に身を寄せている。コロナ禍で長期間面会することはできていないが、「今は」静かに暮らせているらしい。この施設も色々問題が多いのだが、父がストレスなく過ごせているようなので我慢している。不満を全部書くと冗談みたいな話になってしまうので、とりあえず書かないでおく。

父は、タイミングが悪い。

毎回タイミングが悪いという訳ではないが、「ここぞ」というタイミングで禍事が起きる。なので印象がとても悪い。サッカーでも「ここぞ」というところでゴールを決めるのがエースストライカーだ。野球でも負けることができない試合を任され、ナイスピッチングをする投手をエースと呼ぶ。父も似たようなものだ(そうか?)

周囲の人間(主に僕)をピンポイントに狙い、最悪のタイミングで何かを起こす。ただ「最悪だ」と思っているのは、父の出来事に巻き込まれている肉親の僕だけだ。なので周囲には、なかなか同意してもらえない。

もちろん、父はわざとそうしている訳ではない。父は父とて生き、父として生活した結果、そうなっている。本人からすれば「逆恨み」だ。関係ない人から見れば「言いがかり」。なのでこれは、僕の「愚痴」である。

 

父は、タイミングが悪い。

父が脳梗塞で入院した日、奥さんに電話で告げると、義父も末期がんが発覚して入院すると言われた。自分が仕事の時に、病院に着替えを持っていくなどの父の用事を、奥さんに頼めなくなってしまった。向こうはこちらより、命に係わる事案のパーセンテージが高い。父の事での相談も、しにくくなった。

前にも書いたが、長兄は先月中国へ旅立ったばかりだった。二年間滞在予定の単身赴任。それも伸びに伸びてやっと出発したところだった。同じく父の用事を任せることもできず、相談もできず、自分一人で判断しなくてはならなくなった。

前にも書いたが、母はとっくに鬼籍に入っている。

父の面倒や病院との対応、今後の医療判断、介護の方向性など、見事にピンポイントで自分一人に集中した。一カ月前だと、兄もいるし奥さんも余裕があるので、こうはいかない。父の嫌がらせとしか思えない。「逆恨み」かつ「言いがかり」かつ「愚痴」である。

 

父は、タイミングが悪い。

施設から僕のスマホに着信があったのは、今年の五月のGWの夜。徹夜の仕事へ向かう電車内での事だった。いけないことだが電車内で小声で電話に出た。途中の駅で降りると次の電車がなくて仕事に遅刻してしまう。何より乗っている電車は特急なので途中駅にしばらく止まれない。あと一時間前にかかってくればいいのに、とまず施設を呪う。

「お父さんが施設で転倒し、股関節が痛いとおっしゃっています。救急車を呼ぶのですが、このご時世なのですぐに診てもらえるか分かりません。今から来れますか」

という内容だった。色々重なり過ぎていて眩暈がした。

時はコロナ禍、市中がデルタ株に置き換わりつつあり、夏に向けて感染者数が全国的に激増していた。重症者数も増え、病院への入院も断られるケースが目立ち始めていた最中。コロナ患者が救急車運送すらも断られたというニュースが珍しくなくなりつつある頃。

そんな最悪の時期に、脳梗塞の老人が転倒して救急運搬?
よりによって、一年に何回かしかない徹夜仕事の直前に?
よりによって、特急に乗ったすぐ後にかかってくる?

結果として、父は市民病院に受け入れられ、入院して手術も行うことができた。病院への付き添いは奥さんがしてくれたので、僕は仕事へ行くことができた。だが仕事先で同僚がトラブルを起こし関係ないのに巻き込まれた。GW中、都合四日間働いた現場で、同僚がトラブルを起こしたのはその日だけだった。翌日、「お父さん、大変だったそうですね。そんな時に迷惑をかけて申し訳ありませんでした」と謝られたが、僕は混乱してもうどこの誰をどう恨めば良いのか分からなくなっていた。上手に人を「恨む」ことができなくなってきたと感じる。

ちなみに父は、高齢者かつ脳梗塞というハイリスク疾患持ちなので、施設で真っ先に新型コロナワクチンを接種することになっていた。僕があらかじめ施設で接種できるよう、関係各所へ問い合わせ、手はずは整えていた。準備万端。そして接種二週間前、施設で転倒して入院となった父は、新型コロナワクチンを接種できなくなった。

世は、ワクチンが不足して供給停止となる問題が起きていた頃。入院先の病院で頼み込んだが、市民病院なので市民優先、入院患者には打てませんと断られた。

施設で転倒するのが、もう二週間遅ければ。せめてワクチン接種さえできていれば。入院先の病院でクラスターが発生したらどうしようか。そんな不安も幾分和らいでいただろうに。

コロナ禍で入院患者と面会することはできない。父と話すことや、父の病状を確認することもできない。いつ退院できそうなのか、退院したいのか。リハビリ病院に転院するのか、施設に戻りたいのか。父の「本当の」意思確認をすることができない。医者の言葉は全部を鵜呑みにすることはできない。すべて、自分の「勘」で、判断しなくてはならなかった。

 

本当に、タイミングの悪い人だ。

ワクチン接種することも良く分かっておらず、ただ股関節が痛いと訴え、自分は不幸だと落ち込んでいた父。自分が「タイミングが悪い」人間だとは、全く思っていないだろう。

普通に施設で生活して転倒し股関節を骨折したのが、たまたま新型コロナワクチン接種日の二週間前だっただけだ。コロナ感染者数が激増して救急搬送しにくい時期だっただけ、息子が仕事に行く直前で特急に乗った直後だっただけ。転倒した当日に同僚が問題を起こして迷惑を被っただけの話だ。父本人は、何とも思っていない。

なので、介護者の「逆恨み」と「言いがかり」と「愚痴」には、真実が込められていると、僕は思う。

 

退院後、父は施設に戻った。体重が10キロ落ちていたそうだ。

施設から病院へ搬送され、戻ってこれたので、10キロ体重が落ちていただとか、元気がないだとか体力が落ちているだとか、職員さんには分かるのだ。全くの新しい施設だと、比較できないので分からなかったかもしれない。

だから、引っ込み思案で人見知りで、それなのに頑固という面倒くさい父でも、施設で静かに過ごせているのだろう。

タイミングは悪いけど、悪運は強い。

これもまた、本人はそう思っていないのだろうけど。

そういう気持ちも、分からなくはないけれど。

娘が8歳になった。早いものだ。

と同時に、この書き出しで一年に一回、更新するのが年間行事の様になってしまっている。

「もう少し更新したい」と切に思っているが、「文章に起承転結を強く求める性格」からか、オチのない話を書くことができない。

「今日これこれこんなことがあったんだよー」的な話なら、毎月のように書くことが、ナマケモノの僕にだって、できるはずだが、自分の書いた話の一番厳しい読者であるもう一人の自分が「オチは?」と冷たい目で囁いてくるのだ

* * *

というような、言い訳は置いといて。

娘が、とうとう8歳になった。

昔から読んでいただいている方にはピンと来る人もいるかもしれないが、「父ちゃんのお膝の上に乗ることを卒業する年齢」になったのだった。

そこのところどう思ってらっしゃるのか、本人に聞くと、

「その約束は既に12歳まで延長すると通達している」

と、おすまし顔で彼女は平然と言ってのけた。

従妹のお姉ちゃんが12歳まで父ちゃんのお膝に座っていたから自分にもその権利がある、といういつもの主張だ。その従妹のお姉ちゃんは12歳の時に一回だけ僕の膝に座ったきりなのだが、その反論は受け入れられなかった。

本を読むとか、宿題をする時、風呂上りの夕飯前なんかに、膝に座りに来る。

「ちょっと、スマホどけて」

「何でや」

「ええから」

座卓前で胡坐をかいてスマホを見ている僕の膝に、よいしょっと座る。何ならひざ掛け布団と今読んでいる本を持って来て座る。

マンガ読み放題のスーパ銭湯の風呂上がり客のようだ。

最近では身長が伸びてきたせいで、首が疲れるらしい。僕の腕をヘッドレストのように首を預け、横向きに寝転がっている。もう「膝に座る」レベルではない。リクライニング座椅子だ。何なら座るとき「ふぅ」と言う。おおよそ小学校低学年らしくない。

”またまた。お父さん、娘さんに甘えられて嬉しいんでしょ?”

そう思われる向きもあるかもしれないが、そもそも僕は、悲しいかな娘に甘えられて喜ぶような人間ではないのだ。やせ我慢じゃないもん。本当だもん。

 

僕が娘にできることは、僕が「正しい」と思うことを娘がしたときや、娘が言ったときに、本気で褒めることだ。娘を心から褒めることができた時は、嬉しい。

僕の信念において間違ってると思うことを、娘がしたときや、娘が言ったときに、本気で怒る。その時は少し寂しい。

正直、娘に好かれたいと思っていない。好かれないようになったら、それは仕方がないと思う。彼女はこの世に一人の、個性を持った人間なのだ。

彼女が僕を嫌うのであれば、彼女が僕を嫌うという個性の方を、尊重したい(もちろん嫌われるのは悲しい)。

ただ、娘が死んだら、僕は死ぬほど悲観するだろう。想像するだけで気が狂いそうになる。

娘がもし強盗などのアウトサイダーに捕まり、僕が身代わりになれるのであれば、喜んでこの身を差し出そう。

「はっはっは! 騙されたな、お前も娘も人質だ!」

ぬう。なんて卑怯な奴。

そんなこと言われて娘がやられたら、そいつを殺して僕も殺人者に身を落とすだろう。倍返しだ。

おおよそ、法治国家に生きている人間としては間違っているだろうし、人権弁護士にワイドショーで批判を受ける主張だとは思うけど。

もちろん、思ってるだけなので、実際に起きたら、体が動かない可能性もある。そうなっては嫌なので、時々想像しては脳内でシミュレーションしているだけなのだが、その脳内シミュレーションで時々ホロリと涙が出そうになる。

歳をとったものだ。

* * *

昔、作家の田口ランディさんが、「人を何故殺してはいけないのか」という質問を子供がしてきたら、どう答えるかというエッセイを書いておられた。一回どこかで書いたかもしれない。

その問いかけに、「感情」で答えることができるのは親だけなのだ、親だけは「感情」剥き出しに全力で答えてあげないといけない、というようなことを書いておられた。

「理屈」で分らせようとするのではなく、「感情」で訴えかけなさいと。

人は、とかく「理屈」に走りがちである。とくに男親は理屈に走りがち。「理屈」より「感情」が低く見られがちな世の風潮もある。

「感情的になるなよ!」

と感情的に言ってくる輩もおられる世の中だ。

理屈で回答できる「問い」もあれば、感情でしか回答できない「問い」も、またある。

とかく子供は、低年齢であるほど、「感情」での回答しか受け入れることができない。

「人を何故殺してはいけないのか」という質問を子供にされて、そんな質問をする我が子を怒り狂って泣き叫び、叱咤することができるだろうか。なかなか難しい話だ。

嫌われたくない。避けられたくない。友達のような感覚で、息子や娘と楽しくつきあいたい。

 

そういう気持ちも、分からなくはないけれど。

 

それは子供を想ってるのか、自分を想ってるのか。努々考えた方が良い。

僕だってそりゃ娘には可能であれば嫌われたくない。なので正しくは、嫌われても仕方がないと覚悟しているのだ。

もし神様が物々交換で、僕を嫌うことの代償に、娘が友達と楽しく生きて、美味しい物を食べれて、よく眠れて、絶えず笑っているのであれば。

こんなに安い買い物はない。そこだけは本気で、そう思う。

* * *

最近、お風呂に一緒に入ると。

風呂上り、娘は決まって僕に「透明なパンツ」を手渡す。

「はい父ちゃん。透明なパンツ」

「おお、ありがとう。そうそう、こうやって透明なパンツを父ちゃん履くと・・・ちんこ丸見えやんけ!」

ケタケタケタと娘が笑う。小学校低学年は、ベタなほどよく笑う。

高校時代演劇部に入っていたので、とっさに恥ずかしげもなくベタな演技ができる能力を手に入れた。

こんなところで役に立つとはな!

娘が調子に乗って、

「はい父ちゃん、透明なタオル」

「はい父ちゃん、透明なシャツ」

「はい父ちゃん、透明な靴下」

連発してくる。ネタが切れる。結局僕は「いい加減にしなさい!」と怒る。

「父ちゃんボケてー。お願いやからボケてよー」

「えーい。いい加減、お前がボケろ!」

この子が生まれてきた時に、まさかこんな「おねだり」を言う娘に育つとは思っていなかった。

ごめんね。

娘が、7歳になった。

正確には、7歳になって二か月が過ぎた。7歳と言えば、先月から小学二年生である。

一年生の頃は、上半期に登校拒否が幾度かあったようだが、下半期はまあまあ小学校に通えたそうである。楽しく通えているということは、親としては良いことだ。と思いたい。

時折、夜遅くまで起きていて(眠りたくないそうだ)、

「明日起きられへんぞ」

「起きれるもん」

というやり取りの後、案の定翌朝起きれず。近所の登校班の出発時刻に間に合わなかった様で、母ちゃんに怒られ小学校の校門までついて来てもらったものの、母と別れていよいよ一人になると、恥ずかしくてクラスまで行くこともできず。立ちすくんで泣いているところに教頭先生がやってきて(職員室の窓から娘を見つけて駆けつけてくれたそうだ)、手を引かれて一緒に教室まで連れて行ってもらい、ようやく授業に参加できたそうである。

そんな娘が、7歳になってから、全く父ちゃんに甘えなくなった。相変わらず母ちゃんには甘えっぱなしなのだが、僕には全く甘えてこなくなった上に、何かと僕の行動に目をつけ、ナニワのオカンのごとく、減らず口を叩くようになった。

「もう。父ちゃん、ちゃんとして」

ちゃんとしていても、顔を合わすたびに、口うるさく注意してくる。時々本気でムカつくので、本気で怒る。本気で怒ると、ヘソを曲げて泣き出す。

ちょっと、いやかなり面倒くさくなった。

先月だか、先々月だか忘れたが、娘があまりに鬱陶しく僕に注意してくるので(ほとんどが因縁に近いものなのだが)、本気で怒鳴り散らしたことがあった。

「お前、もうええ加減にしとけよ! あまり我儘ばかり言うてたら、父ちゃん許さんからな!」

そんな感じで怒鳴りつけ、僕は自分の部屋に閉じこもった。

娘はいつも通りヘソを曲げ、いつも通り大泣きしてしまったのだが、その後に母ちゃんと一緒に出掛ける用事があったらしく、しばらくして二人で車に乗って、どこかへ出かけて行ってしまったのだった。

* * *

「その年頃の女の子は、そういうものですよ」

とかなんとかいう声が、どこからか聞こえてきそうな話である。すべての女の子がそうだとは思わないけれど、うちの娘はおそらく、「そういう」性格に生まれてきたのだろう。血筋だろうか。

 

僕の母親は、口煩く、無視しても無視しても、息子にからんでくる人だった。

母は、息子に「言い過ぎたな」と思ったら、ほとぼりが冷めた頃に優しく声をかけ、様子を伺いに来るのが常だった。

反抗期の頃は、それすらウザったいものだった。

逆に自分が間違っていないと思ったら、絶対に「ごめんね」とは言わない人だった。「ありがとう」とは言われた記憶はあるが、怒られた後に「ごめんね」と言われた記憶は薄い。それだけ信念を持って、僕を叱っていたのかもしれないし、いや多分ただの頑固者だったのだろう。

兄が大人しい性格だった分、僕の反抗が目立ち、母親は僕との関係に手を焼いていた。

僕が就職して横浜へ行くと決まった時、父親はあっさりしたものだったが、母親は泣いていた。

「何で悲しいねん。毎日、『死ね、クソババア』と俺から悪態つかれることもなくなるんやから、むしろせいせいするやろ。兄貴は何も反抗せぇへんのやから」

と言うと、

「アホか。毎日言い合いできる奴がおらんようになるから、寂しいんやろが」

母はいつものように、鬼の形相で僕に言った。泣いてるのか怒ってるのか。忙しい人だった。

兄貴は黙って何も言ってこないのでつまらん、ともつぶやいていた。

――そういうもんか。

僕はてっきり、母に嫌われていると思っていた。それだけの反抗をしてきたからだ。

年を取ってから、反抗期の頃の自分を思い出すと、とりあえず死にたくなる。

* * *

自分の部屋で、パソコンで調べ物をしていると、背後の方で、部屋のドアがスッと開いた。

誰かが立っている気配がする。その前の玄関のドアが、ドーンと乱暴に開いていたので、おそらく娘だろう。

部屋の片隅にピアノが置いてあるので、おそらくいつものように僕の嫌がらせをするために、ピアノを弾いて邪魔をしに来たのだろう。

なので振り向きもせず、無視してパソコンで調べ物を続けていたのだが、いつまでたっても、人の気配は動かない。娘なら痺れを切らして突っ込んでくるハズだった。

しばらくして、根負けして振り向くと、複雑な笑顔の娘が立っていた。

「ごめんね」

僕に向かって娘が、「め」と「ね」を強調して言う、いつもの変なイントネーションで謝罪した。

「・・・」

「ごめんね!」

少し恥ずかしそうに僕に言う。

「いやまあ、別にもうええけど・・・」

「はい、おみやげ」

手渡されたのは、うちで贔屓にしているパン屋さんのパンだった。二人で買いに行ってきたのか。

「父ちゃんの好きなピザパンがなかったから、ウチと同じカボチャパン。はい」

「ありがとう。一回だけ、おしりたんていのムービー、観るか?」

「うん。観る」

そう言って、パソコンチェアーに座る僕の膝の上に乗り、楽しそうに「おしりたんてい」のムービーを見だした。謝罪の気持ちは何処へやら。

おそらく、奥さんが車の中で、娘に言い聞かせたのだろう。後で感謝の言葉を述べておかなくては。

「もう一回」

「一回だけって言うたやろ」

「もう一回!」

すぐ調子に乗るところは親に似ていて不安になるけれど、娘が「ごめんね」と言えるように育って良かったと、僕は胸をなで下ろしていた。

――ごめんね。

その一言が言えるなら。この子の人生はこの先、まあまあ大丈夫だろう。そんなことも。

 

娘は、7歳になった。

結局僕は、もうこの世にいない母に謝ることができないので、その点では、娘の方が上である。

はれた日は学校を休まないで。

この春小学校に入学した娘が、ちょくちょく学校を休んでいるという。

週の半ばになると、「色々と疲れる」のだそうだ。

金曜日の夜遅く。

大阪から奈良の山奥へと車で帰り、翌土曜日の朝に娘と顔をあわせる。玄関横の襖をガラリとあけると、畳の部屋でテーブルの下に隠れている一体の人型娘。それはもう、必ず隠れている。

それを無視したり、足蹴にしたり、茶番劇で相手をするのが土曜日朝の定番だ。娘の機嫌が良ければ、一週間に起こった出来事を教えてくれる。

先日、

「父ちゃん。二週間、一回も休まんかった!」

鼻からフンフンと出ている煙が見えそうなほど、自慢された。

「何に?」
「小学校にきまってるやろー!」
「お、おう。そうか・・・偉いな」

得意満面の娘を見ていると、

「父ちゃんは病気以外で一回も小学校を休んだことないぞ」

と威張っても、全く無意味だということが分かる。

なので言わない。娘は自慢しているのだから、良い気分にさせるため、褒めて調子に乗らせておくべきだ。こういう思案を「忖度」と言うのだろうか。そろそろ死語か。

本人は、休まず学校へ行くことを、「良いこと」と思っているようである。

そういえば娘が休んでしまった日、家でずっとモジモジしていた。休むのは「悪いこと」だと思っている様であった。

夕方、小学校から近所の同級生が帰ってきたので、「皆帰ってきたみたいだから、遊びに行けば?」と言うと、「嫌!」と拒絶していた。そのくせ縁側に立って、皆の様子をずっと覗いていた。

これは僕の意見であるけれど。

学校へ休まず行くことは、必ずしも「良いこと」ではない。

ただ、休まず学校へ行くことは「偉いこと」ではあると、個人的に思う。

学校へ行かず、休むことは「悪いこと」ではない。でも「良いこと」でもない。中間の「普通のこと」かと言われると、そうでもない。

他人が決めることではないし、他人がとやかく言うことでもない、と思っている。

「学校は楽しいよ。友達と一緒に学び、遊ぶことは面白いよ」

どこかで聞いたような、それでいてよく聞くこの意見は、一般的には「正しい」と思う。でも決して「正解」ではない。万人に当てはまる万能調味料ではないので、美味しいと思う人もいれば、不味いと思う人もいる。

なので、それを人にグイグイと人に押し付けることは良くない。うんこを相手に擦り付けてるようなものだろう。ステレオタイプな価値観だし、旧弊的な思考回路から脱却できていない。何より窮屈で息苦しいではないか。

「学校は楽しくない。友達と一緒に学び、遊ぶことは面白くない」

そう思いながらも、死ぬほど我慢して学校へ通う子がいたら、その子は「偉い」と思う。でも「正しい」のかどうかは、誰にも決められない。

現実の小学校では、なかなかそういうことを教えてはくれない。多様性を認める教育はするけれど、生徒個人個人の多様性をいちいち認めていては効率が悪い。最大公約数的にまとめようとするのが、「学校」という組織だ。

小学校を一週間休まずに行くことが「体力的にしんどい」と言うのであれば、休んでもいい。今は昔と違う。休んだからと言って昔のようにそうそう、どつかれることもなかろう。

小学校の勉強なんぞ、後からいくらでも挽回できる。もっとも、本人のやる気があれば、という話だけれど。

 

本当のところ。親の正直な思いとすれば、一日も休まず、元気に小学校へ通って欲しい。多少辛いことがあろうとも、工夫して乗り越える力を養って欲しい。

ただそれは、こちらの勝手な「願い」であり、世間体を多少なりとも気にした考えであり、娘本人の為を考えた発言かと問われると、甚だ疑わしい。

『みんなちがって、みんないい』

詩人・金子みすずはそう詠っているけれど、その言葉を現実社会で、実感することは大変難しい。

誰もがこの言葉は「正解だ」と思っているけれど、心の底から実践することができなくて、座りの悪い経験をしている――からかもしれない。

多様性を受け入れず、フワフワした幽霊のような「規律」を守ろうとする社会では、学校を休むことは「悪いこと」と決めがちだ。誰も直接言わないけれど、実体のない幽霊の様に、その「規律」を何となく支持していて、何となく押し付けてくる。学校を休まない自分は「正しい」とか「偉い」とか、そんな評価に囚われがちな社会は昔も今も、確実に存在している。

というわけで。

「病気以外で一回も小学校を休んだことない」という誰かさんは、「二週間、休まずに小学校行った」という娘より、偉くも何ともないということになる。

何よりも娘は、僕にだからこそ、自慢したかったのであろうから。褒めてもらいたかったのであろうから。

次に娘が「二週間、休まずに小学校行った」と僕に言ってきたときは、

「やったな、イエーイ!」

ハイタッチでもして、まずは一緒に喜んでみたいと思う。

がんばります

続・続・城の崎にて。

去年の十一月、出張で兵庫県豊岡市へ行った。

仕事の合間の休日を使い、一人電車で城崎温泉の駅に降り立った。

特別、城崎温泉に行きたかった訳ではない。

宿で一人することもなく、かといって街に繰り出したい訳でもなく。それなら二駅先の城崎温泉にでも行こうか、ここで行かないと二度と行くチャンスはないかもしれないし、という薄軽い気持ちだった。

駅前の広場には観光客がごった返していた。外国の方も結構いた。ご時世だ。

城崎温泉の有名どころと言えば「外湯めぐり」だ。今までに二回来て、巡っているはずなのだが、ほぼほぼ記憶にない。

えーと確か、最初に来たのはかれこれ三十年前と・・・。

そんなことを考えながら、商店街を歩き始める。

有名なスマートボールの店は覚えていた。まだあったんだなと驚く。

ワイシャツとスーツしか持ってきてなかったので、そんな恰好で外湯をめぐる謎のおっさんの姿は、さぞかし観光温泉地で奇異に写っていたことだろう。

* * *

初めて城崎温泉に来たのは、十九くらいの頃だった。

右も左も分からない、高校卒業したての若造を、職場の先輩方が連れて行ってくれた。

男女混合で、十名くらいの大所帯。学生時代にどぶねずみ色の青春を送っていた僕にとって、その選抜メンバーの中にいるというだけで、勝手に大人の一員になれたような気がした。でも振り返って考えると、所詮ただの人数合わせだったんだろうと思う。

それでも僕らは、大人数で旅行にいけること自体が楽しかった。年若い何も知らない僕らは、先輩たちの後ろを金魚のフンよろしくつけまわり、一つ一つの所作を真似ては、社会の常識とやらを一つ一つ吸収していった。

記憶の奥底に眠る、そんな若い頃のことを想い出したのは、フェイスタオルを購入し、一番奥の外湯である「鴻の湯」へ行ったときのことだった。

はて、こんな遠くの外湯まで来たことあったっけ?

外湯めぐり券がQRコードになっていたことに驚きと戸惑いを隠せず、風情が云々とか便利が云々とかグルグル頭の中を巡らしながら。

すっぽんぽんになって湯船に入った。

うん、全く覚えていない。でも内湯は深めで入りやすい。露天は山の麓にあり、外気温が低いので気持ちの良い景色ではあった。

風呂上り。

湯船で体を洗うのに使用したフェイスタオルを良く洗い、再度拭いては水けを絞り、繰り返して脱衣所へ出て、そのまましばらく休憩して扇風機などにあたり体を乾かす――。

そういえば僕は、三十年前の先輩たちとの旅行で、この方法を教えてもらったのだった。教えてもらった外湯はここではなかったのだが(おそらく一の湯だったと思う)。

「外湯行くぞ」
「タオルだけで行くんですか。バスタオルはないんですか?」
「そんなもんいらん。これ一つだけでええねん」

爾来、僕はフェイスタオル一つあれば、風呂屋で何とかなるようになった。城崎温泉の外湯で、その作法を教わったのだ。

――人の「記憶」は、場所によって、呼び起される。

城崎温泉に来なければ、そんなエピソードを思い出すことはなかった。日常に埋もれ、記憶の底に沈み、日の目を浴びることはない沢山の記憶の断片。

その場所に行けば、否応なしに蘇る。

その記憶は、楽しかったり嬉しかったり、寂しかったり悲しかったりするかもしれない。

思い出すエピソードを、選ぶことはできない。

楽しい思い出を呼び起こす場所であっても。悲しい思い出を呼び起こす場所であっても。無差別に等しく思い出してしまう。

そして。僕は思い出す。

城崎温泉は僕にとって、楽しく、悲しく、そして切ない場所だったのだということを。

* * *

外湯を出て、駅の方向へ戻る。

「まんだら湯」は休みだった。出ている看板が読めないのか、外国人観光客が入ろうとしている。英語が分からないので、とりあえず見なかったことにして後にする。

「御所の湯」は、豪勢な風呂場だった。露天に滝が落ちており、すごい迫力である。観光客には受けそうだ。

「柳の湯」は、時間的に入れなかった。

「一の湯」は、脱衣所にかすかな記憶が残るが、湯船にどうも記憶がない。

――どこだったんだろう。

おぼろげに思い出した記憶の中の風景を、外湯をめぐりながら探していた。今日これまでに入ってきた外湯では、なかったはずだった。

二回目に、城崎温泉へ来た時。

その日は大雪だった。僕はすっぽんぽんになり、平日で誰もいない露天風呂に飛び込んだ。

次々と、漆黒の闇夜から間断なく降り注ぐ、白い雪。温泉の水面に落ちては、一瞬で溶けて消えた。

一生の内でそうそう見ることができない景色に同化しながら、僕はいつまでも降りしきる雪を眺めていた。いつまでたっても、湯冷めもしなかったからだ。

外湯を出て、脱衣所で服を着る。

暖簾をくぐり、玄関先の椅子を見る。座って待っていた彼女が振り向き、手を振る。僕は彼女に、「すごかったね」と告げた。

「うん。すごかったね」

降りしきる雪の景色ともに。その時僕に見せた彼女の笑顔もまた、一緒に思い出したので。

少し、胸が苦しくなった。

 

僕が二回目に城崎温泉へ来たのは、二十三歳の頃。

大学生の頃、当時つきあっていた女の子と訪れた。

彼女は、宇治のええとこの娘さんだった。二歳年下の彼女は、何かにつけて若かった。

文学部の授業の、その年の課題が志賀直哉だったことから、

「志賀直哉を研究するんやったら、城崎温泉やろ。冬休みに一泊旅行いかへん?」

そうやって下心丸出しで僕が誘ったのか。それとも実は彼女の方からそうやって誘ってくれたのか。

もう思い出せない。けど、きっかけは志賀直哉だったことに間違いない。文学館の前ですまし顔をしている僕の写真が、実家に残っているのだ。

電車を乗り継ぎ、二人で城崎温泉へ来た。この電車はいつまでも、止まらず走り続けるものと信じて疑わなかった。

彼女は家族に、女友達との旅行だと嘘をついて来てくれた。

「城崎温泉に行くんだったら、家族旅行でよく使う旅館があるの。まかせてよ」

彼女が予約を取ってくれたのだが、今思うと家族が良く使う宿には泊まったらあかんかったんちゃうかいと思わなくもない。

当時の彼女は、「私だって、できることは沢山あるんだから」というアピールを、ことあるごとに僕にしていた。

何も知らない。何も分かっていなかった当時の僕と。

彼女もまた、恋に恋しているような、どこにでもいるような普通の女の子だった。

* * *

「地蔵湯」に入って、外に出た。

川の両脇には、枝垂れ柳が植えられている。

後は駅前の「さとの湯」だけだ。だがあそこはスーパー銭湯然としていて、風呂が階段を上がった二階にあるらしい。さすがにそこではないと分かっていた。

結局その日は、当時の彼女と一緒に見た大雪の露天風呂が、どの外湯だったのか分からなかった。

臨時休業の外湯と、昼から開店する外湯があったので、もしかしたらそこだったのかもしれない。しかし時間的に、そろそろ宿に帰らないといけなかった。

城崎温泉へ来ることは、もうないかもしれない。

分からずじまいになるけれど、それはそれで良かったかもしれないと思った。

彼女の思い出は、今の僕には必要のないものだ。忘れていた物であり、忘れようとしていた物でもあった。

お店でコロッケを買ってパクつく。その先の角を右に曲がって、文芸館通りを歩き、城崎文芸館に来た。当時の僕がすまし顔をして、彼女に写真撮影してもらった時の場所だ。

「せっかくだし、誰かに一緒に撮ってもらおうよ」

僕が言っても、写真を撮られることが大嫌いだった彼女は、頑として首を縦に振らなかった。

なので当時の旅行の写真に、彼女は一枚も写っていない。写っていない写真はやがて年月を経て、彼女自身の記憶をも溶け込ませてしまっていた。

だから呑気にも、ノコノコと忘却の地に、足を踏み入れてしまったのだろう。

 

そういえば当時。

宿泊する旅館に入る前、彼女が僕に言った。

「ねえ。お願いがあるんやけど」
「何?」
「宿帳って書くやん? あれにね、同じ名字で書いて欲しいの」
「別にいいよ。それくらいなら」

宿の受付へ行き、大阪の実家の住所を書く。そこに僕の名前と、名字を僕のものにして、横に彼女の名前を書いた。

振り向いたとき、彼女は照れくさそうな、それでいて嬉しそうな顔をしていた。

「現実になればいいね」

嬉しそうに、彼女は頷いた。

しかし僕は、宿帳の彼女の名前を、現実にしてあげることはできなかった。

それどころか、彼女に一生の傷を負わせるほどの酷いことをしてしまい、最終的に彼女は僕の元から去って行った。

* * *

そろそろ宿に帰らないと、夜の作業に差し支える。

まだまだ観光客の姿は残っているけれど。

僕は一人、ホームに入ってきた電車に乗り、城崎温泉駅を後にした。

列車がゆっくり走り出す。車窓には、収穫を終えた田んぼの風景が広がる。ぼんやりと、窓外を眺めながら物思いにふける。

永遠の愛が、「ない」とは言わないけれど。

それは細く脆く、果てしなく困難な道だと、おっさんになった僕は思っている。

「絶対に一生守ってあげる」だとか。

「絶対に一生好きでいる」だとか。

「嫌いになんて、絶対にならない」だとか。

歯の浮くような青臭いセリフを言っていた頃の、当時の僕を思い出す。

(最低な奴やったな・・・こんなこと想い出したくて、城崎まで来た訳やなかったんやけど)

そんなことを考えながらも、今の僕と当時の僕と、そんなに変化ないことも、よく分かっている。人間、そんなにコロコロ変われるものでもない。

「世の中に絶対なんてない」、と巷間ではよく言われる。

ならば、当時の僕が彼女に言った言葉は、嘘だったのだろうか。

少なくとも、当時の僕はウソ偽りなく、本気で思っていただろう。

一生、守りたかったのだろう。

一生、好きでいたかったのだろう。

結果的に、叶えることができなかったからといって、その時の感情までを否定しなくても、良いのではないか。正当化したい訳でもなく。何もそこまで。

記憶を封じてまで、当時の自分を卑下しなくても、良かったのかもしれない。そう思った。

記憶に封をするのではなく、当時の自分と向き合って、腹を割って話し合っても良いのではないか。それが例え、現実味のなかった、青臭い夢語りの記憶だったとしても。

 

彼女は大学を卒業してすぐ結婚し、子供も生まれたと聞いた。

良かったと、思うのと同時に、胸のどこかがチクリと痛んだ。

結婚式に参加した同級生から、話を聞いた。

「アンタには会いたくないけど、アンタのお母さんには良くしてもらったから会いたいって。笑って言ってたよ」

彼女らしいコメントだなと思い、僕は少し笑った。

文学碑

猫はすくすく元気です。