2歳の娘とおじいちゃんのこと。

二歳半の娘には、まだ自分一人ではできないことが沢山ある。

例えば、ビンの蓋を開けるとか。難しいパズルをやってみるとか。

そんな時は、

「父ちゃん、これやって!」

と僕にせがむ。

せがむというか、命令する。

父親として、それをしてあげることが誇らしく、また嬉しいことでもある。

 

その娘が産まれる少し前、僕の父が散歩中に倒れ、頭を強打し、救急車で病院に運び込まれた。冬の一番寒い時期だった。

幸い命に別状はなかったが、父は長引く入院生活の中で、すっかり生きる気力を失ってしまった。

娘が産まれた後も、父の入院生活はしばらく続いた。僕ら家族は当時、父と同じ家で一緒に生活していたので、入院時の世話から送り迎え、費用の段取りから何からすべて僕らが面倒を見ていた。

奥さんは産まれたばかりの一人娘の世話でてんやわんやだったと思う。

僕の母親はすでに他界しており、面倒を見ることができるのは僕らしかいない。僕は僕で仕事が忙しい。なのに、いつまでたっても生きる気力を一向に見せない父親にイライラし、つい語気荒げて父に怒鳴ることも、しばしばあった。

「死んだ母ちゃんは不治の病やったけど、最期の最期まで、諦めずに頑張ってたやないか。それを一番近くで見てたんは、つきっきりで看病してたオヤジやろうが。オヤジの病気は治らんモンやない。そやのに何で、生きようと思わへんねん」

――母ちゃんに恥ずかしいと思わへんのか。そんなことも思えないようなら、死んでしまえ。

あまりに腹が立って、病室で怒鳴り散らしてしまうこともあった。

「子供が産まれたら、おじいちゃんとして色々手伝ってくれ」

と僕が言うと、「よっしゃ」と笑いながら答えていた父。

病に倒れ、病院に運び込まれ、二度の手術を経て家に戻ってきた日から、誰とも会おうともせず、一日中家に閉じこもるようになった。ことあるごとに僕も声をかけるようにしていたが、父の心には、響かなかった。

 

言葉もしゃべれなかった娘もやがて成長し、よちよち歩きができるようになった頃。僕ら一家は、大阪から引っ越した。

娘は見ず知らずの人に抱かれると泣き、知っている人でも一週間会わなければ抱っこされると泣いた。立派な人見知りに育った。

月に一二度大阪の実家に帰ると、その人見知りの娘も、おじいちゃんには近寄っていく。近寄って行っては、ソファに並んで一緒にテレビを見たりしている。

「おじいちゃん、すき」

娘が恥ずかしそうにそう言った。

父は何とも言えないような、照れくさいんだか何だか分からないような顔をした。

「おじいちゃんのこと、好きなんか」
「うん」
「そうか」

父はそう言って押し黙ったまま、何か考え込むように娘を見つめていた。

やがて、父は散歩を再開した。相変らず夕飯を食べるとすぐ寝室へ行って寝っころがりながらテレビを見るが、見ながら軽めの鉄アレイでトレーニングをするようになった。

 

人に、前向きな気持ちを持ってもらうことは、とても難しい。

「生きろ」

という言葉は、何だか嘘くさい。

 

娘はイヤイヤ期に突入し、益々生意気になったけど。おじいちゃんのことは変わらず好きなようだった。

あいかわらず、ビンの蓋をあけられなかったり、難しいパズルがあったときは、

「父ちゃん、やって」

と僕にせがむというか、命令する。

 

父ちゃんは、君がまだまだ何もできないことを、よく知っている。

父ちゃんが手伝えるときは父ちゃんが、母ちゃんが手伝えるときは母ちゃんが、君を助けてあげている。

でもね。

父ちゃんにはできない、「君にしかできないこと」があることも。父ちゃんは、ちゃんと知っている。

君はおじいちゃんに、「生きよう」と思わせてくれた。

それは父ちゃんがどれだけ頑張っても、おじいちゃんに思わせることができなかったことなんだ。

どうもありがとう。これからもよろしく。

(了)

* * *

娘が二歳半のころの、エッセイコンテストに応募しようと書いた文章を見つけ、折角なのでアップしてみた。

文字数制限内にどうしても収めることができず、文字数を削ってしまうと伝えたいことも削れてしまう気がして、なんとなくお蔵入りにしていた。

その頃と今の状況は、色々と変化しているけれど、書いた時の気持ちは、忘れてなるまいと思った。

6歳の娘と父ちゃんのやせ我慢。

娘が、6歳になった。

娘にとって僕は「父ちゃん」という役割だが、唯一無二のその役割を6年間全うしてきたことになる。飽き性の自分からすると、よく続いたものだと思わざるを得ないなどと、一年前の焼き直しでお茶を濁すところからこの話は始まる。

6歳と言えば、四月から小学生だ。

一年前、父ちゃんのふくらはぎには「8さいまで」座ると宣言していた娘。だが、先日もう一度聞くと「12さいまで」と勝手に意見が変わっていた。

1.5倍である。おおよそ、ラーメン屋で大盛りを頼む麺の量と同じだ。そう、大体において大盛りは、2倍の量を食べられる訳ではない。

などという話がしたい訳ではない。話を進める。

「こないだまでは、8さいまでって言うてたやん」

「いいの。12さいまで」

「ていうか、小学校入るんやし、もう6さいでお膝座るの卒業してみたら?」

「嫌。12さいまで」

「さすがに12さいまでお膝に座るのは、あかんやろ」

そう娘を諭すと、

「この間○○ちゃん、父ちゃんのお膝に座ってたやんか」

○○ちゃんとは、兄の娘だ。つまり僕の姪であり、娘の従妹である。

姪っ子は、小学6年生の女子だ。叔父である僕を、赤子時代のあだ名で呼ぶ。赤子時代のあだ名で僕を呼ぶのは、齢80を越えた親戚の叔父叔母と、この姪っ子だけだ。面白がって呼んでいる内に定着したらしい。

何故か僕に懐いている。そのため、会うと身軽に背中にしがみついてきておんぶさせられたり、あれやってこれやってあれちょうだいこれちょうだいと、Sっ気全開で自由気ままに命令してくる。

年明けに公園で皆一緒に遊んでいたとき、姪っ子が疲れたと言って僕の膝に座ってきた。背が高いので前が見えない。

「重い。○○ちゃんどいて」

「嫌」

「どけー!」

「キャハハ! 嫌ったら嫌ー!」

娘はその様子を見ていたのだ。

つまり、姪っ子が僕の膝の上に乗っていたのだから、「自分も○○ちゃんと同じ年までは父ちゃんの膝に座る権利がある」と、こう主張している訳である。

「父ちゃんは『重いからどいてくれ!』って頼んでたやん。でも○○ちゃん、『嫌や』言うてキャッキャ喜んで、父ちゃんを困らせてたやろ?」

「うん」

「座りたかった訳やなくて、父ちゃんをからかってただけなんやで」

「いいの。12歳まで座るの」

姪っ子は、立派にSっ気全開に育ったのだが、娘には今一つSっ気がない。特に大勢の「他人」がいる集合体の中では、全くといっていいほどSっ気を出さない。

内弁慶である。

父ちゃんにだけは、安心してSっ気を出す。それでも、お姉ちゃんである姪っ子が僕にSっ気を出している間、大人しく自分のSっ気を引っ込めている。

滑り台の順番を、上で並んで待つ子のように。

「自分の番ではない」と待てるようになった。長きにわたった保育園での集団生活のたまものかなと思う。女の子は、男の子より早く大人になる。しみじみ思う。

その分きっと、沢山傷付くのだろう。世の男の子は、そういう女の子を守るためにいてあげて欲しい。

「年頃の女の子」というのは、こうやって大人の階段を上るのだろう。少女だったと懐かしく、思う時が来るのだろう。

* * *

2年ほど前。

「抱っこして―」と抱きついてきたときに娘が、

「父ちゃん、重くない?」

と言ってきたことがあった。

「ああ。重くなった。お姉ちゃんになったな。もう父ちゃん、抱っこできへんようになるかもしれへんわー」

冗談でそう言ったのだが、娘は悲しそうな顔をしていた。

後で奥さんに話を聞くと、保育園でおともだちから、体格の事でからかわれたのだという。遠い目で、「ダイエットしようかなあ」と言っていたそうだ。

娘は早生まれだが、体が同年代の子より大きい。男の子と比べても大きい。遺伝による問題なので、娘に責任は一切なく、血筋のせいであり、つまるところ僕のせいでもあると言える。

軽口を後悔した僕は、次回より娘を抱っこした時は、

「めっちゃ軽いな!」

と、やせ我慢をするようになった。

「本当? 重くない?」

「おう、楽勝や。全然重くないぞ。もっと飯食え」

筋トレをしているときは本当に重さを感じなかったものだが、最近はさぼっているせいかズッシリと両腕に響くようになった。

 

6歳になり。

最近は、あまりそれも言わなくなってきた。

そもそも抱っこを、あまりねだらなくなってきた。

それでも忘れた頃に抱っこをねだり、「父ちゃん、重くないか?」と聞く時がある。偉いもので、「重くない!」と条件反射で口から言葉が出る。

抱き上げた人が重いかどうかは、その人の主観だ。僕は娘に、嘘をついている訳ではない。

娘がどう思おうが、それは構わない。

この先、何年たっても。仮に娘が肥満になって本当に重くなったとしても。

僕は死ぬまで、娘を「重くない」と言い続ける。言い続けて、仮に持ちあがらなくても、死ぬ気で担ぎ上げるだろう。

それが、娘を持つ父親の役割だと思うのだ。

さぼっていた筋トレを、また再開しなければならない。

スタミナラーメンセット、ご飯大盛り。

週末。車で家に帰るのが遅くなる時がある。

そういうとき、夕飯は外で食べることが多い。

「夜遅く」と言っても、午後九時過ぎ。それでも家の周辺に開いてる飲食店はほぼない。仕方がないので、コンビニで弁当を買って帰ることもある。とはいえ、コンビニは日本全国どこでも同じものが食べられるので、出来る限りは避けたい。

関西一円には、王将という中華料理チェーンがあって、結構夜遅くまで開いている。日が変わるまで開いていたり、日が変わっても開いていたりする。

チェーン店というくくりでは同じものをどこでも食べられるという点でコンビニと同じなのだけど、王将には直営店とフランチャイズがあって、後者は独自のメニューを出していたり、味が違っていたりする。王将も今やほとんどが本部主導の直営店となり、個人店主が切り盛りするフランチャイズ店は見つけるのも困難になった。

うちの近所の王将は、地方だからか珍しくフランチャイズだ。なので、ご飯の大盛りが日本昔話に出てくるような山盛りだったり(味が今一なのだけど)、産地だからか知らないけど野菜がたっぷり入っていたりする。微妙に嬉しい気持ちにさせてくれるので、そんなに王将へは行かない人だけど、ここへは時々行くようにしている。

 

冬のすごく寒い日。道路が凍結している時期。十時まで開いている温泉施設で疲れを洗い流し、温める。ほっこり気分でくだんの王将に入る(何度も言うが、近所でそこしか開いてないのだ)。

頼むのは、最近はほぼ「スタミナラーメンセット」。お腹が極限まで減っているときは、ご飯をプラス50円で大盛りにしてしまう。

スタミナラーメンは、奈良のご当地メニューで、白菜と豚肉とニラが入っていて、ピリリと辛いスープに細めの中華麺。ただここのスタミナラーメンは人参も入っており、野菜炒めのようになっている。そこに更にラー油を少し垂らして食す。

それに名物の餃子が一人前付いてくる。こちらは、ラーメンの味が辛いので、お酢だけで食べる。餃子にそもそも下味が付いているので大丈夫(何が大丈夫なのだろうか)。

あとは白ご飯。炒飯ではだめ。白ご飯。

辛いスープでご飯が進む。時々餃子をほおばっては、再度スープで流し込む。麺でご飯を食べるのではなく、どちらかと言えば辛いスープと餃子で、白ご飯をパクパク食べている感じである。

辛いし、炭水化物ばかりだし、ニンニク入ってるしで、どう割り引いても寝る前に食べる食事ではない。そういう訳で、お腹が減っていてどうしても食べたい時にだけ、頼むようにしたい。けれど、いけないとは思いつつ、つい頼んでしまう。

悲しい人間の性だ。

* * *

つい最近まで、極限まで精神的に追い詰められていた。そんな出来事が、身辺に起こっていた。

他人の悪意をぶつけられ、その影響範囲が家庭にまで及びつつあった。

性格的に自分は、涼しい顔をして受け流せるだけの器がない。不安をどんぶり一杯山盛りにして、毎日を生きていた。

時間にすれば一週間とちょっと。振り返って他人が聞けば、「何だそんなことで」と一笑に付すのかもしれないけれど。当事者である僕は、ノイローゼ寸前の状態まで追い込まれ、仕事中何も手につかず、現場へ多大な迷惑をかけてしまっていた。入院していた父親の看病も、ままならなくなってしまった。

周囲へかかる迷惑を考え、家庭にとって最悪の選択をする、寸前まで行った。

色々な人の助けを借り、ある日、その出来事は収束に向かった。

張りつめたものから少し解放され、ろくに眠ることもできず睡眠不足に陥っていた僕は、朝日が差し込む部屋で一人嗚咽を漏らしながら泣いた。

情けなさと、恥ずかしさと、嬉しさと、安堵感と、色々な感情が一気に押し寄せてきて、頭の中で何かが切れた。

朝日が眩しくなかったら、泣かなかったかもしれない。

 

その期間。週末家に車で帰ったとき。一睡もすることができず、一日何も食べることができなかった。

温泉施設に入り、ぼーっとした頭で、いつもの王将に入った。

何も食べたくなかった。ずーっとメニューを見ていたが、何も考えられなかった。でも、いつものスタミナラーメンセットを注文していた。ご飯は大盛りにはできなかった。

食欲はない。でも何か胃袋に押し込まないと、気力で負けてしまう気がした。「スタミナラーメンセット」を食べれば、本当にスタミナがついて元気になると、本気で思っていた訳ではない。

僕はきっと、いつもの「日常」を取り戻したかったのだろう。

無理やり胃袋に押し込むことで、自分なりの日常を、取り戻したかったのだ。

一年で一番寒い時期。お風呂で身体を温めても、心まで温まらない。

掴める藁が、見当たらない。

助けてもらえる人はなく、助けてもらう訳にもいかず。進むことも戻ることもできない袋小路に入った思考回路を、無理やりこじ開けようともがいていた。

その時の僕は。

スタミナラーメンの麺だけを少しすすり、ご飯を半分残し、餃子を二つだけ食べて、店を出た。

* * *

一月が経ち。

少しずつ少しずつ、自分というものが戻ってきた頃。

とある週末、雪が降り、底冷えがする寒い夜。一人夕飯を食べに近所の王将に入った。

いつものように、自分でグラスを取り、ポットから水をいれ、一口飲む。

いつもの従業員が、いつものように注文を取りに来る。

「スタミナラーメンセット、ご飯大盛りで」

いつものようにスマホをいじくりながら、いつものように注文の品が来るのを待つ。

お待たせしましたと言う声とともに、スタミナラーメンセットご飯大盛りがやって来る。餃子は今焼いていますと言う。まじか。

箸を取り、麺をすすり、スープをれんげですくい、ご飯をほおばる。餃子が来る。一つ食べて、またご飯をほおばる。

よく噛んで食べなさいと、ある人に言われていたことを思い出し、少し笑って、意識してゆっくり食べる。

汗ばむほどの辛さで、胃袋が発汗し、体全体の寒さが遠のいていく。

少しの満足感とともに、今度は全部、食べきることができたのだった。

 

追い詰められていた当時、僕はただ普通に生活できる「日常」が、欲しかった。

何も考えずに働き、何も考えずに飯を食い、何も考えずに眠りたかった。

どうすれば、日常に戻れるのか。どうすれば日常に戻ったということになるのか。どうすれば心配してくれた人々に、「僕は日常に戻ったのですよ」と分かってもらえるのか。

本当の意味では、もう以前のような「日常」に戻れることは、ないのかもしれない。

昨日と今日が違うように。今日と明日が違うように。

僕が何も考えないで毎日生きているというだけで、「日常」なんてものは、本当は存在しないのかもしれない。自分が必死に生きていない言い訳をしているだけなのかもしれない。何もかもから逃げうせて、楽に生きたいだけの「日常」なのかもしれない。

それでも、僕は――僕なのだ。

スタミナラーメンセットのご飯大盛りを食べることで、自分がその昔過ごしていた「日常」に戻れたと、少し実感することができる。

少しだけ、嬉しく思う。それも僕なのだ。

何て、安上がりな人生なのだろうか。

今度はさすがに、泣くことはなかった。

スタミナラーメンセットご飯大盛り画像

「寂しさ」の距離感。

正月の最中、入院先の病院から一時帰宅中だった父を、車で送り届けた。

医師から「一時帰宅するなら24時間付きっ切りで見ておくように」と言われていたため、全く正月気分になれなかった。父には悪いが、これで家に帰ってやっと、正月気分になれる。

なので、「寂しくなる」などという感慨は持てなかった。

病院からの帰り道、二十数年前に死んだ飼い犬が弔われている、動物霊園に立ち寄った。

昔飼っていた犬は、こことは別の動物霊園で弔っていたのだが、昨年、経営者都合により、飼い主の意向を無視して突如閉鎖になったらしい。当時、テレビなどで「あまりにひどい」とニュースになっていたそうだ。

そんなことがあったとは露知らず。

先月ノホホンと墓参りに行くと、くだんの共同墓地が跡形もなくなくなっていて愕然とした。立っていた看板で、事の詳細を知ったのだ。別の動物霊園のご好意で、閉鎖された前の動物霊園から動物たちの遺骨を引き取り、現在は弔ってくれているらしい。

以来、新しい方の動物霊園の前の通るときは、なるべく寄るようにしている。

共同墓地だから死んだ犬の魂も「寂しくはなかろう」と、一瞬頭を過る。しかし「寂しくないだろう」と僕が思うのは、頻繁に墓参りをしない自分への言い訳に過ぎない。そもそも、死んだ犬が「寂しい」と思う訳もない。

手前都合な考え方しかできない自分が、たまに嫌になる。

* * *

犬の墓参りも早々に済ませ、大阪の実家に帰る。

電気の付いていない、誰もいない家の玄関を開け、部屋に入って蛍光灯の紐を引く。二匹の猫が足元にすり寄ってくる。

餌くれー、餌くれよーと泣いているようだ。少し多めに餌をやる。満腹になると、ぷいとどこかへ行ってしまう。猫所以である。

正月は、奥さんと子供と僕と猫で、大阪の実家に来ていた。

今日からは奥さんと子供で、奥さん方の実家へ行く。今朝、僕は父親を連れて病院へ、奥さんと子供は実家の方へ、それぞれ別れた。

猫たちだけで奈良の家に一泊させることも可能だが、猫だけで寒い夜を留守番させることにトラウマがある。その昔、猫は二匹だったが、一匹にさせてしまった経験を持つ。奥さんの実家では、猫を泊まらせることができない事情があるのだ。

故に、僕が一日だけ大阪の実家で、猫たちと一夜を明かす。なんとなく、それが正月の自分の仕事になってきている。どんなことでも、役割があるのは楽だ。

なので、一人だけど「寂しく」はない。

昨年の正月は、猫一匹と、僕だけだった。週末しか家に来ない僕に、猫は心を許していないから、一晩中奥さんと娘を探してニャーニャー泣き続け、暴れまわっていた。おかげで睡眠不足だった。生後間もなくから屋内で飼っている猫なので、寂しがり屋を前面にアピールする猫に育った。

「何だよ、俺じゃダメなのかよ。俺じゃお前の寂しさを癒せないのかよ」と身勝手にスネたものだが、今年はもう一匹増えたので、「寂しく」なかった様だ。実家の隣の部屋で二匹、おとなしくしている。

猫たちは、「寂しい」と泣くそぶりもない。

 

我が家の猫が、再度二匹に増えたのは、昨年末のこと。

元から飼っていた方の猫が、こちらの手違いで家の戸を開け、脱走していた事件が発端だ。夜のうちに抜け出していた様で、朝まで気が付かなかった。

ちなみにこの、元から飼っている方の猫。キジトラっぽい雑種なのだが、奥さんと子供は「ニャー」と呼ぶ。通称である。きちんとした正式名称があるのに、奥さんも娘も正式名称で呼ばない。

「名前なんてどうでもいい」と、『寄生獣』のミギーみたいなことを奥さんは言った。どうでも良い訳なかろうと、僕だけは正式名称で、猫を呼び続けている。

ちなみに、正式名称の名付け親は、娘なのだ。

どうして自分が命名した正式名称で猫を呼ばないの? 君が名付けたんだろと聞くと、「どっちでもいいから」と、既に興味がなくなっていた。飽き性なのは誰に似たのか。親の顔が見たい。

その通称「ニャー」が家を脱走し、冬の寒い中、二日間戻らない事件があった。

ぬくぬくと甘やかされて育った家猫である。奥さんは、「そういえば家の外でオス猫がさかりをつけてナーゴナーゴ泣いていた。脱走して一緒に逃げたに違いない。山の気温は平地より五度十度低い。凍え死んだり、車に轢かれたりしていなければいい。それだけが心配だ」と、「寂しそう」に言った。

オス猫の彼氏とどこかで楽しく暮らしていればいいけど、野垂れ死んでは可哀そうだ。

とりあえず奈良の保健所に連絡したり、行政機関に連絡したりするように進言し、僕は僕で、周囲をパトロールしてみたりした。だが、僕の滞在期間中に猫が家に戻ることはなかった。

猫が家に戻ってきたというメールが奥さんから届いたのは二日後のことだった。

家の外で猫の鳴き声がしたそうで、娘が「ニャーが帰ってきた!」と喜び勇んで外に駆け出すと、飛び込んできたのはキジトラではなく、見知らぬ白い猫だった。

大いに戸惑った娘は、

「うわー! 猫が違うぅー!」

びっくり仰天して、その場で大泣きしたということである。

以来、びっくり仰天された方の、猫違いの猫も、家に居ついてしまった。

居ついたも何も、飼い主の許可が出ないと居つけないのだが、放逐するのも「寂しかろう」と思ってしまうのだろう。

当然、その白い方の猫「たまさん」は、僕に懐かなかった。週末しか滞在しない僕の事を、当初は「猫狩りをするスナイパー」を見るような目で警戒していた。

だがそこは、明日をも食えぬ経験を経てきた元野良猫。手に隠し持った猫のオヤツを与えながら少しずつ距離を縮め、今では足元にすり寄ってくるまでの関係になれた。奥さんには内緒である(書いてしまったが)。

後に、オスではなくメスであり、動物病院に連れて行くと、出産経験もある五、六歳ということが判明。クシャミをよくするのはアレルギー持ちだからだそうだ。そんな状況でよく、糞寒い奈良の山岳地帯で、生き延びれたものである。

「タマさん」と名付けられた元野良猫は、サザエさんが大好きな娘が付けた。ベタである。こちらの正式名称は、奥さんも娘も常時使用している。何故だろう。

先に説明したとおり、「タマさん」は野良猫出身ということで、餌への執着心が半端ない。他の猫の餌をも奪い取ってしまうだけでなく、我々の夕飯への好奇心も執着心も半端ない。何を与えても大丈夫そうな食欲だ。玉ねぎも平気で食べそうで怖い。

子猫時から家飼いでヌクヌク育った、軟弱な通称「ニャー」が、元野生の「タマさん」に勝負で勝てる訳もなく、何かと隅っこに追いやられがちになった。大阪の実家では寝床まで奪われていた。

かといって元野良猫なのに、「タマさん」はトイレのしつけも完璧。お風呂に入れてもおとなしくしており、移動用の籠に入ってもおとなしくしている。人間受けが良い。

一方の通称「ニャー」は、籠に入ったら延々泣き続ける。前に、奈良から大阪までの移動一時間半泣き続けていた。一人にしておくと寂しがる、風呂に入るのを嫌がる、ブラッシングも嫌がる、家に帰ってきたら「よくもずっと一人にしたな!」と飛び掛かってくる。トイレをどこでもしてアピールする。

一人っ子の我がままを、随所に見せる。

うちの娘に似ている。

ちなみにうちの娘は、通称「ニャー」を妹と思っているが、どう見ても通称「ニャー」の方は、娘を下に見ている。

 

そういう訳で。

正月を大阪の僕の実家で過ごすために連れてきた猫二匹。

即座にいつもと違う環境にも順応して、とも大人しい。落ち着いている「たまさん」を見習ってかどうか知らないが、通称「ニャー」も落ち着いている。

昨年と違って、「たまさん」がいるので「寂しくない」のだろう。いがみ合っているくせに、微妙な距離で二匹は鎮座している。

僕はと言えば、今宵は正月中日とはいえ、人間は家に一人。

でも、隣の部屋で二匹、猫が大人しくしているというだけで、「寂しく」はない。猫が泣いたら泣いたで、「煩いな」「預からなければ良かった」と辟易するくせに、身勝手なものだ。

少し物足りない。もう少し世話を焼かせてくれないと、自分の立つ瀬がない。

あまりにも泣かないので、少し「寂しく」なる。二匹の部屋へ行く。

通称「ニャー」は、折りたたまれた毛布の上にちょこんと座って寝ている。僕に一瞥くれただけだ。「たまさん」は、隅っこで寝ていたが、餌をくれるのかと足元にすりよってくる。そのうち、何もくれないことが分かると、どこかに行ってしまう。年季の入ったお局のキャバクラ嬢のようだ。

よう元気でやってるかねと、人気のない上司の無駄なアピールのように、二匹の頭を意味なく撫でる。ネコハラである。至極迷惑そうだ。

少し寒いかもしれない。暖房を一時間かけてみた。加湿器のスイッチも入れる。

* * *

人間は、「寂しさ」を抱えて生きる宿命にある。

「寂しくなんてない」という言葉は、逆に「寂しそう」に響く。

人間が何故「寂しくなるのか」という命題は、生物学的な答え方や、精神的な答え方や、色々諸説あると思う。そんな理屈はとりあえず今は置いておく。

人間だけではなく、飼った印象で言えば、猫も寂しがり屋だし、犬も寂しがり屋だ。動物は皆多かれ少なかれ群れたがる。

「寂しさ」を抱えて生きている状態こそが、正常な反応なのだと思える。

「寂しくない」という人を信用することはできない。

「寂しい」と泣く人は慰めたくなる。人間は、「寂しい」と連呼するくらいが、丁度良い精神状態だと思われる。メンツとか気恥ずかしさとかがあるから、心の中で連呼するはめになるのだけれど。

男性と女性の「寂しさ」の質に違いもあるだろう。年齢とともに変化していくこともあるだろう。子供の寂しさと、老人の寂しさは、違うものであるはずだ。

老人になるまで「寂しさ」に無頓着だった人は、老人になった時に襲ってくる「寂しさ」に耐性がなく、準備も怠っていたため、孤独に耐えられなくなっているように思える。

気難しそうな独居のお爺ちゃんで、「一人が気楽だ」と豪語しながら、訪問すると延々と話をし続けて終わらない人がいる。高齢化社会の本当の問題は、体制や制度なんかじゃなくて、こういった「寂しさ」の行方の問題なのだろう。

沢山の友人を抱える人を羨ましいとは思わない。でも、正直に「寂しさ」に向き合っている結果だとも言える。

僕が「友達をそんなにいらない」と言うのは、ある程度の「寂しさ」に耐えうる方法を確立しているからではあるけれど、それは脆く儚いものだと自分自身で把握もしている。

だから僕自身は、僕自身の「寂しさ」を癒してくれている人に、感謝しているし、大切にしている。

 

ある人は、好きな人ができたとして、その人との別れを想像して、怖くなるかもしれない。

またある人は、子供がいるから「寂しさ」が紛れるのであれば、やがて子供が親離れした後が怖くなってしまうかもしれない。

またまたある人は、犬や猫を飼うことで「寂しさ」が紛れるのであれば、やがてその犬や猫の生死に直面することが怖くなってしまうかもしれない。

何故それらが怖いのかと言えば、その後に「寂しさ」がやってくるからだろう。

「人間は皆、一人で生きていく」

「人間は皆、一人では生きていけない」

二つの相反する言葉は真実だと、高校時代に結論付けた僕は、以来ずっと、この相反する二つの言葉の意味を考え続けてきた。

「寂しい」時は、「人間は一人で生きていく動物なのだから、寂しいのが当たり前だ」と思うようにして耐えてきた。

「寂しい」気持ちで潰れそうになった時は、「一人では生きていけないのだから、誰かに助けてもらおう」と、片っ端から友人知人に話を聞いて貰うようにした。

一人で生きていく、という自立心。一人では生きていけないという、他者への感謝の念。

双方に折りあいをつけることで、喧嘩させずに良いバランスで、同居させるようにしなければならないのだろう。

家飼いの猫と、元野良猫が、一つの部屋で折り合いをつけてすごすことで、寂しさを紛らわせている「距離感」があるように。

一つの部屋であれば鬱陶しいと思うけど、隣の部屋にいるという距離感であれば、紛れる「寂しさ」もあるように。

それはとても、身勝手なことなのだけど。「寂しさ」は、身勝手さの産物でもあるのだ。

身勝手だからと自分の「寂しさ」を押さえつけることなく。人間の当然の感情としての身勝手さなのであり。そこから生まれてくるものなのだから、「寂しさ」は当たり前の感情だと安心して良いと思う。

きっと、その程度に思っておいた方が、丁度良い。

田舎のおじいちゃんとおばあちゃんが、正月休みで帰省していた息子たちが帰る日に、「寂しい」と思うかもしれない。

その気持ちは、とても人間らしい、当たり前の感情だ。

なのでその場の「寂しさ」を一時的に紛らわせても、また次の「寂しさ」を生み出す永久ループになる。それさえ知ってさえいれば。隣の部屋にいる程度の、丁度良い距離感を、知ってさえいれば。

投げる言葉は、「また会おうね」だけでいい。

それ以上の言葉も、それ以下の言葉も、不要なんじゃないかと僕は思うのだが。いかがだろう。

相手が「寂しい」と思うか、そうでないかまで、こちらは考える必要はない。誤解かもしれないし、考え過ぎなのかもしれない。自分が思っているよりは、さほど相手は「寂しく」もないかもしれない。

この世に、正しく「寂しさの量」を測れる装置があったとしても。他人の寂しさを癒すことは誰にもできない。残念ながら、現代の医学ではまだ薬も注射もワクチンも、開発されていないのだ。

* * *

学生時代、川端康成の随筆に「犬を飼うと良い」と書いていた。

ノーベル賞を取るほどの人が何を書いているのかと思ったが、犬がいることで、夫婦間の軋轢が解消されるというような内容だった。神経が衰弱しているときなどは、精神的に大変良いとも書いていた。

それは、犬が何も言わないからだろう。犬はその習性から飼い主に忠義を尽くす。こちらからの呼びかけに、律儀に反応してくれるし、不満も言うことはない。身体全体で喜びを表現してくる。

川端康成は、大の犬好きで有名だ。

 

――まあ、猫はそうはいかないけどな。

一息ついて、懲りずにまた隣の部屋のドアを開ける。

猫が二匹、離れて寝ている。一匹は毛布の上、もう一匹は座椅子の上。

座椅子の上は、長いこと通称「ニャー」の指定席だった。だが今は「タマさん」が座って寝ている。寝床を奪われたのに、それほど通称「ニャー」は、気にしていない。

寝床取られて悲しいのかな? と想像するのは人間で、当の猫には些細な事なのだろう。人間様の毛布の上で、ぬくぬくと寝ている。自分がそのうち使う毛布なので、いつ剥いでやろうかと思う反面、寝てるのに剥ぐのも悪いなどうしようと考える。

身勝手なもので、猫が大人しく寝ていると少々「寂しく」なる。ちょっと起こしてみようかなと、少し手を出す。頭をなでる。噛まれる。失礼しましたと、すごすご退散する。

そうして。この話を書いてみた。

孤独で「寂しい」時に、想いを込めた文章が書ける。

娘と遊んでいるときや、誰かと一緒にいるときは、文章が書けない。

「寂しい」時だけ、自分の中に潜む、もう一人の自分と向き合うことができる。「寂しさ」が鍵となり、扉が開いて対話ができる。

昔の僕は沢山文章を書いたので、随分「寂しかった」のだろう。幸か不幸か、今は文章があまり書けなくなった。

「寂しい」ことは、僕にとって大切なことだ。人として、時々正常な位置に戻してくれる。

僕にとって正常な位置が、人にとってどうなのか。怖くて聞けない。

今宵は、隣の部屋で猫が暴れずに大人しく寝ていたので、丁度良い距離感で書くことができた。

「寂しさ」に向き合い、もう一人の自分と対話する時間を持つことは、そう悪いことでもないと自分では思う。

 

猫が僕を見上げて、「ニャー」と泣く。

人間は面倒臭いね、とでも言っているのだろうか。

120センチメートルの攻防。

我が家では最近、夕刻になると「鬼」が出没する。

* * *

娘が夕方になると言うことを聞かず、凶暴化するという話である。

安心して欲しい。村人の生け贄は今のところ親だけだ。

娘は来年から、小学生になる。

保育園でずっとお昼寝をしてきたので、夕方になると眠くなる傾向は前からあった。だが、成長し体力がつくにつれて、長時間起きていられるようになっていた。

とはいえ、眠いのは眠いらしい。

眠くなったら10分ほど仮眠を取って、シャキッと起きる方が機嫌よく一日過ごせるのだが、娘は「自分はもうお姉ちゃんなので、お昼寝しないことが大人だ」という、昭和っぽい間違った感覚を持っていて、フラフラになりながら無理やり起きているのだ。

おそらく自我が制御できない状態になるのであろう。そのうち喜怒哀楽が激しくなって、親に八つ当たりをし始める。

「お腹すいた?」
「すいてない」
「じゃあおやつはいらんな?」
「いる」
「眠い?」
「眠くない」
「じゃあ、そのまま起きとけ」
「キー!」

反対の事しか言わなくなる。

「天邪鬼」という言葉は、娘の為に誂えたのではないかと思うほど適切な表現だ。

今も昔も子供は変わらないという、証左なのかもしれない。

* * *

今年の夏は鬼、もとい娘とよくプールに行った。

幸いにも娘は水を怖がらす、泳ぐことが大好きだ。車で二人、市民プールなどに出かけた。

中には、ウォータースライダーのあるプールもあった。滑り台が大好きな娘に遊ばせたいと思ったが、身長制限があることが多かった。

年齢の割には身体が大き目の娘である。ダメ元でチャレンジしてみては、5cmほど足りなくて係の人に止められた。娘はガッカリしていた。

僕らの子供の頃はそこらへん、親が付き添えば「おまけ」してくれていたものだが、最近は事故防止のため、線引きが厳格にされているようである。

「惜しかったな。あとたった、5cmやん」
「うん」
「このままお姉ちゃんになれば、来年は滑ることができるよ。来年は一緒に滑ろう」
「お姉ちゃんになったら、身長伸びる?」
「今、白ご飯時々残すやろ? ちゃんと食べないとまた来年スライダーすべれないよ」
「ごはん、ちゃんと食べる」

大人はこうやって、ずるく子供をしつけるけれど。

子供はいつだって、好きなことに全力投球だ。

ちなみに、ウォータースライダーの身長制限は、おおよそ120cm。

遊園地のジェットコースターとか、その他様々な遊具の、身長制限もこのあたりだった。

娘はそのため、この身長に届くことを、「大人へのステップ」と捉えているようだった。

* * *

120cmの身長制限を「大人へのステップ」と娘が捉えている事が、他にもある。

近所のよく行くお風呂屋さんに、「身長120cm以上の児童の男女の混浴は、ご遠慮下さい」と張り紙に書いてあるのだ。

うちの家は冬激烈に寒いので、月間パスポートを買って、よく家族で入りに行っていた。

娘は、週末しか一緒にいない父ちゃんと、男湯に入りたがった。

「今日は、父ちゃんと入りたい」
「いや、もうお姉ちゃんなんやから、母ちゃんと一緒に入りなさい」
「嫌、父ちゃんと入る!」

娘と入るとつきっきりになるので、ゆっくりと湯船に浸かり温まることができない。少し前までなどは、娘はぬるい湯にしか入れなかったので、お風呂屋さんから出ても寒くてガクブル震えていた。

疲れているときは正直、一人でゆっくり入りたいと、思うこともあった。

 

最近の娘は、お風呂屋さんでもよく癇癪を爆発させる。

お風呂に行く時は夕刻。鬼の出没時間帯である。

スーパー銭湯では、さまざまな割引制度があるので利用する。その場合、販売機で入浴券を買わず、受付の従業員に割引券を見せて、お金手渡しで買うことになる。

我が家の鬼は、お風呂屋さんに行くと、販売機にお金を入れてボタンを押したがる。それができないと、癇癪を爆発させて「ボタン押したかった」と泣きわめく。

「いい加減にしろ! それやったらお前だけ風呂に入らなくていい!」

もちろん、そんな正論は鬼には一切通用しない。なにそれ美味しいの状態だ。

結局、気分が落ち着いて風呂に入れるようになるまで、一時間かかったこともあった。

ある時は、割引券を見せた後に気が付いたため、

「子供の分だけ割引きは結構です。販売機で買います」
「え? 子供さんも、50円割り引きでこちらで受付ますよ?」
「はあ。でも、本人が販売機で買いたいみいたいなので」
「正規料金いただきますよ?」
「いやはあ、それで全然結構です」

受付のおばさんが気の良い人だったので良かったが、何故そんな無駄なことをするのか、少々理解不能だったことだろう。

* * *

その日も、お風呂屋さんへ向かう車の中で。

娘は「父ちゃんとお風呂入る」と言って聞かなかった。少々、機嫌が悪くなってきているようだった。

「そやかて、身長120cm以上やと、入れへんやろ?」
「まだ120cmやないもん。なあ母ちゃん」
「いま、身長何センチなん?」

後ろに乗っている奥さんに聞いてみる。

「さあ。一か月前に図ったときは、117cmくらいやったけど」
「そうか。じゃあ一緒に入ってええよ」
「やったー! 父ちゃん、一緒にぬるいお湯にずっと入ろ!」
「父ちゃん、ぬるいお湯は温まらなくて嫌なんやけど」

その日行くスーパー銭湯は、家から車で30分ほどのところにあった。お値段は少々高め。

うちの娘は、近所のお安いお風呂屋さんが嫌いだ。「場所が遠くてお高い」お風呂屋さんを主に好む。

まさに鬼だ。

お風呂屋さんに着いた。

靴箱に靴を入れ、入場券を買う。

奥さんから娘用の着替えを受け取り、男湯の暖簾をくぐる。

ロッカーを選んで、娘の服を脱がせる。次いで自分の服を脱いでいると、

「父ちゃん。身長図ってー」

見るとスッポンポンの娘が、脱衣所備え付けの身長計の前に立っていた。

「父ちゃん、まだパンツ脱いでないから、待って」
「早くパンツ脱いでー」
「はいはい・・・」

こんな場所で、機嫌が悪くなられたらたまつたものではない。そそくさとパンツを脱ぐ。

「きおつけの姿勢で立って。あご引いて・・・」

娘の頭頂部は、120cmを少し超えていた。

「120cm、超えてるぞ!」

興奮気味に、僕が叫ぶ。

「いくつ?!」
「ちょっと待て。122cmやな」
「すごい!」
「やったな、これで来年は、プールでスライダー滑れるな!」
「うん。やったー!」

スッポンポンの娘と、スッポンポンの中年男性が、風呂屋の脱衣所で、他人の目を気にせず、笑顔で抱きあって、大声で喜びを分かち合っていたのである。

その時、脱衣所の他のお客さんは、どんな気持ちでスッポンポン親子を見つめていたのだろうか。

「あ。でもちょっと待て」

一つ、大事なことに気付く。

「もうこれで、父ちゃんとお風呂屋さんには、入れなくなるな」

娘が少しだけ、悲しそうな顔をする。

「でも、福祉センターとお家のお風呂はええやろ?」と娘。

「福祉センターとお家のお風呂は、ええよ」
「じゃあ、それだけでいい」
「そっか。偉いな。今日はお店の人に黙って入ろうか」
「うん。父ちゃん、ぬるいお風呂に一緒に入ろー」

雪が降り出しそうな寒い夜だったけど。ぬるいお風呂に、娘の気が済むまで、一緒に浸かった。

湯船では、男の子がバシャバシャ泳いで周囲に迷惑をかけていたけれど、娘は我慢してお湯に浸かっていた。

「お外のお風呂に行きたい」

娘が言う。

お湯からあがり、無意識に左手を、下に伸ばす。

娘が僕の横につき、当たり前のように右手を、上に伸ばして掴む。

ぬるぬるの床を、二人で手をつないで、そっと歩く。

いままで当たり前にしてきた、日常の光景。そのうち一人で転ばないように気を付けて、歩ける日がくるだろう。

その日を心待ちにしている自分と、少しだけ寂しい自分。その両方の自分を、これから僕は、死ぬまで同居させ続けるのだろう。

一生涯のうち。娘と一緒にお風呂に入れる期間など、たかだか知れている。

身長が120cmを超えたからと言って、娘が急に「大人」になる訳ではない。

でも娘は、120cmを境に、できることが増えたこと、できないことがあることを、理解したと思う。

できることを知ること。

できないことを知ること。

子供の成長にとっては、どちらもとても大切なことだ。

それを意識できない親にはなりたくない。巡り巡って、子供に大切な物として還元されるものと信じて、そう心得ていきたい。

 

いつの日か、我が家の「鬼」も、出没しなくなる日がくるだろう。

「鬼」と一緒に過ごした日々も、振り返ってみれば、良い昔話になるだろうか。

娘と身長を図り、二人喜びあったこの日を、僕は忘れないでいたい。

猫はすくすく元気です。