泥と蛍と道頓堀と死体

奈良に住み出して三ヶ月――。

「通い出してから」となれば、一年と少しになる。けれど、たまに実家のある大阪に帰ることもある。

とある朝方。

通勤のため、京阪電車の京橋駅で降り、JR環状線に乗り換え外回り。

するとすぐ、車窓から川が見えてくる。在阪テレビ局の前を流れるこの川は、実家の市内から流れてくる。淀川から分岐して、遠路遥々流れてきているのだが、

久々に見て、「きったなーい」と思った。

「きたない」ではなく、「きったなーい」である。小さい「っ」がポイントだ。「問5.筆者の心情がよく現れている文章表現を選べ」という文章問題が出たら、小さい「っ」の選択肢をマークして欲しい。

それほどまでに、久々に見る川は汚かった。

淀川から分岐したての時はまだ幾分汚れ具合もマシなのだが、市内を流れ、流れ、流れている間に、見るも無惨にドス黒くなっていく。もはや川と呼ぶより、巨大な下水道と名乗る方が良い。

奈良の山近くに今の家はある。初めて訪れたとき、近所を流れる川の透明度に、度肝を抜かれたものだった。しかし人間、慣れは恐ろしい。ひと月で感動は薄れ、今や何とも思わなくなっている自分がそこいる。

物の「価値」は、比較する存在があって強く意識される。劣等感も優越感も、そもそも比較対象の「他者」がいなければ、抱く必要はない。世の中に一人しか生きていなければ、優越感も劣等感も抱くことはないのだ。

大阪市内を流れる生まれ故郷の川のなれの果てを見て、今住む土地に流れる川の美しさや貴重さが、より意識でき浮かび上がる。

そして僕は、

「奈良の川が『蛍川』なら、生まれ故郷のこの川は、さしずめ『泥の河』かな」

と思ったのだった。

* * *

宮本輝の小説に、「川三部作」なるものがある。

富山県の片田舎に住む一人の少年の成長を、美しい自然とともに描いた『蛍川』。1987年に映画になっているらしいが、観たことはない。

『道頓堀川』は、将来と家族に悩む大学生が、大阪の繁華街でアルバイトをしながら暮らす都会小説で。

最後に、ただひたすらに毎日を生き抜く、戦後の人々の復興を描いた『泥の河』。以上三部作。

『泥の河』に描かれる川は、時々死体が流れてくる。戦後の殺伐としたリアルな社会が、その一文だけで読者の心に打ち込まれる。

『蛍川』に描かれる川は、美しい自然を流れる川だ。そこに舞う蛍を描写することで、幻想的で儚く生きる少年の世界を描く。

宮本輝は、三作の中でそれぞれ違う「川」を描き、違う「価値感」を表現している(と思う)。

だから、綺麗な流れの『蛍川』を「美しく」表現してはいても、宮本輝は「正しい」とは言っていない(はずだ)。

汚くて生活用水が垂れ流されていて、死体が時々流れてくるような、救いのない『泥の河』を、卑下すべきものとして描いている訳でもない(多分だけど)。

宮本輝は、川を題材に語ることで、それぞれの「社会」をただひたすらに生きる「人間」を、小説の中に描いている(んじゃないかなーと思ってるんだよね!)。

* * *

奈良の自然を流れる川の「価値」と、大阪を流れる生まれ故郷から来た川の「価値」。

その価値を決めるのは、「人」だ。

泳いでいる鮎でもなければ、鯉でもない。

奈良の川を美しく大事にしていかなければと思う気持ちも、生まれ故郷に流れる「きったなーい」川を「しょうがねぇなあ」と呆れる気持ちも。

どちらも僕にとっては、僕にとっての、僕だけのオリジナルな「価値」なのだ。

どちらが優れているとか、どちらがいらないものだとか、そういうたぐいのものではないのだろう。

その川から見える「社会」には、その川を産み出した意味があり、その川に寄り添うように生きる人々がいて、それぞれがそれぞれに日々感じ、抱く「想い」がある。

川三部作の中では『蛍川』が一番有名で、文部省選定図書でもあり、実際人気もあるのだけれど、読んで僕が一番心に残ったのは、『泥の河』だった。

川の汚れに気が回らないほどに、川上から死体が流れてきても絶望する暇もない程に、皆が一日一日を一生懸命生きていた。

その、ひた向きさが好きだった。変な話だが、うらやましいとさえ思った。僕には、小説中の川の汚れが、その時代、その社会において、とても「価値」あるものに思えた。

若い頃の話だけれど。

生まれ故郷を出て大阪市内に注ぐ、きったないきったない川を、だから僕はそんなに嫌いではない。落ち込んだ時などは、飲んだ後に一人、ぼーっとよく眺める。

いつまで眺めていても、死体は流れてこないけれど。