孤独と孤独

ある大学の小冊子を読んだ。

その中に、障害者のための介護機器の使用法や開発などを主に研究されている、長崎大学の長尾哲男教授が、インタビューでこんなことをおっしゃっていた。

「この電動車椅子には『孤独機能』を付けたんです。孤独っていうと冷たい非人間的な印象があるかもしれませんが、わたしは大変人間らしい状態だと思うんです。つらいときは誰でも時として、ひとりっきりで横になりたいって思いますよね――」

四股がまともに動かない、支援が常に必要な重度の障害者には、「孤独」になる自由がない。

教授が考え出した車椅子は、口とあごさえ動けば、座って動き回れる姿勢からリクライニングシートを倒して横になり、またもとの姿勢に戻る行為をひとりで行えるようにした。

教授のインタビューは、この言葉で締めくくられる。

「障害者が、ひとりで泣く自由を実現したんです」

この人、さりげなくすごいこと言ってるー、と思った。

* * *

人がいつ、どのようなときに「孤独」になるのかと言えば、それは「他人との関係において」に他ならない。

最初から一人であれば、「自分が孤独である」と実感することなどないのだから。

他人がいるから、会えなくて寂しいのだし。
他人がいるから、一緒にいれば寂しくはないのだ。

「人間は、しょせん一人で生きていくのさ」
「人間は、一人じゃ生きていけないよ」

どちらも同じだけ真実で、同じだけ現実だ。

昔から思っていた。だいたい高校生の頃にはそう結論を出していた。

友達が沢山いる人間も信用していなかったし、友達が一人もいない奴も信用していなかった。

「友達欲しいんですけど、作れないんですよね」という人を信用しがちだった。

「友達は沢山いるみたいなんですけど、誰も信用できないんですよね」という人に信頼感を覚えた。

片方に考えが寄っている人間は、無理やりもう片方を見ないようにしているように思える。

片方を見ないようにしている分、本当は強くもう片方を意識しているのではないか。

孤独を愛している人ほど、人に優しくできるのかもしれないし。
孤独を憎んでいる人ほど、人に優しくできないのかもしれない。

* * *

意思の疎通が「孤独」をなくすのだとすれば、意思の疎通ができないときに「孤独」は生まれるということになる。

人は、生きているだけで自分勝手なのだ。

意識して自分勝手な行動を取る人もいれば、意識しなくて「結果的に」自分勝手な行動を取ってしまうことだってある。

そりゃもう、仕方がないことだって沢山ある。

じゃあ、「孤独」であふれかえっているこの世の中で、果たして他人の「孤独」まで思いやることができるだろうか。

「孤独機能」の搭載って、そういうものじゃないか?

他人との意思疎通は、とても難しい。というか完璧には無理だと思う。

ましてや障害者や要介護者と健常者の場合、それは簡単ではない。相手のためにと思って助けたことで、憎まれるケースもごまんとあるだろう。

四股が自由に動かない人の世話を一生懸命して、介助者が「相手には孤独になる自由がない」と、そこまで気付いてあげられるだろうか。

健常者同士の場合でも。

「自分は、相手の『孤独の自由』を損ねてはいないか」

などと思いやることが、振り返ってみて自分に、できているだろうか。

できていたのだろうか。

一人で泣いている女の子を見たら、マニュアル通りに横にいてあげるべき、と思う男子が大半ではないか?

 

村上龍の『とおくはなれてそばにいて』という恋愛小説短編集があるが、男子には必読の書であろう。

「矛盾してるやん」とか言ってる奴は、一生一人でいればいい。

一人で泣いている涙は、どちらの涙なのだろうか。

横にいるべき「孤独」と。
横にいてはいけない「孤独」。

その両方の「孤独」は、とても人間らしいものだ。

その両方の「孤独」が、自分にとっても相手にとっても大切な「自由」なのだと思えたときに、他人に優しくできるのかもしれない。

この車椅子を開発した教授は、きっとそこらへんが分かっている人なんじゃないか。

そう思った。というお話。

 

まあ、幾分考え過ぎだ。

いつもの悪い癖だな――と思いながら、孤独にトイレにこもってひねり出した友を水に流して別れを告げ、僕は今日も一人立ち上がるのだった。