付喪神

「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心をたぶらかす。これを付喪神と号すといへり」

「つくもがみ」――という妖怪がいる。

鳥山石燕の『百器徒然袋』を紐解けば、茶碗や壺や釜から手足をはやした妖怪たちがユーモラスに描かれている。先の文章は、御伽草子『付喪神』の序文で書かれているものだが、「器物は、百年たつと化けて妖怪となり、人の心をたぶらかす」と紹介される。

この付喪神。妖怪なのに「神」と書かれていて、少々変な感じがしないでもない。しかし、日本における「神」という字は、欧米諸国の唯一の「神」と同じ漢字を使ってはいるが、その意味はだいぶ異なる。

日本の「神」は、「人知の届かない存在」を示すと考えてよく、妖怪であろうが何であろうが、片っ端から「神」と呼ぶことがある。それゆえに日本は、八百万もの神々が存在する。キリストだけを「神」と呼ぶ欧米諸国とは、そこが大きく異なる。

時々、付喪神の紹介文は「物を大切に長く使わないと、化けて付喪神となってしまう」という古来の戒めとして使われる。日本昔話の「もったいないオバケ」も、この系列に属すると考えて良い。

でも、昔の人がこの「付喪神」という妖怪を長く語り続けてきたのは、物に対する人間――僕ら人間の「心」の在り処が大きく関係していることを、示したかったのではないかと思える。

ここに、一つの壺があるとする。

値段は材料費だけの百円。もし「この壺を割ってください」と言われたら、僕らはあまり抵抗なく割れるだろう。

同じ材料で作られた百円の壺を、百年後、同じように割れるだろうか。材料成分も製造方法も全く同じ。違いは「百年経過したかどうか」だけ。

たったそれだけで割れないようになるのが――心を残す、僕ら「人間」なのだ。

犬や猫なら、何の躊躇もなく二つとも割るだろう。

* * *

「Q. 先生は、どうやってデザインを考えるのですか?
★それが言葉で説明できれば、誰でもデザイナになれる。人間のノウハウには、言葉に還元できない事柄が沢山あります」
(森博嗣『臨機応答・変問自在』)

* * *

「どうして人を殺してはいけないのですか?」

そんな質問をされたことがある。

僕はその質問に対する答えを、言葉で表すことはできない。何故なら、その質問に対する僕の答えは、今現在も僕の頭の中で「言葉」に置き換えることができないからだ。言葉にした瞬間からウソ臭く、なんだか違うものになってしまうように思えて、嫌だからだ。

だから、その質問にも答えることはしなかった。

人によっては、「法律で禁じられているから」「社会が成り立たないから」と答えるかもしれない。

「人類の本能の基本は「種の保存」。だから同属を殺すことは生物の本能に反することだ」

でもやはり僕は、この質問に対して「言葉」で答えることをためらう。

多分、言葉にすることが正解じゃないと、心のどこかで思っている。

「なんて馬鹿なことを言うの!」

その質問をした子に、その子のお母さんが泣きながら手を上げたとすれば、僕は、それこそが「正解」に近いと思う。

肉親にしか、教えられない答えもある。

感情に訴えなければ伝えられない答えも、ある。

親の仕事はいつの時代もどこの国でも。子供ために、死ぬことだ。

* * *

若い人と話をしていると、「どうしてそんなに焦るのかな」と思うときがある。

「社会全体が、せわしなく動いているから」と言えばそれまでだけど、そんなありきたりの「言葉」で説明することに僕は躊躇する。分かった顔は、したくない。

でも僕は、そんな焦っている人の心に、自分の想いを伝える術を持たない。持っていないから、無責任に「焦るなよ」と、ありきたりの言葉をかけることしかできない。

それがとても、もどかしい。

自分の想いを、考え方を、気持ちを――あふれ出すことなく、少なすぎることなく、すべて伝えられないことがもどかしい。伝わらないことが、もどかしい。

挫折。失望。絶望。憎悪。嫌悪。

人の心に「すぐ効く薬」はない。

頭が良い人ほど「言葉」が分かるから、「言葉」を使い、「言葉」に惑い、「言葉」に苦しむ。やがて「言葉」に埋もれ、素直に「心」を見つけることができなくなる。

それがやがて、「孤独」を産む。

人が「心」をなくせば。

人を殺める「鬼」となる。

焦っているのはきっと、隠れている子供を早く見つけたかったからだ。

* * *

付喪神は書きかえると「九十九神」と記す。

「器物百年を経た」妖怪なのに、九十九だと百に一つ足りない。「百」という字に一画足りない漢字は「白」。神を「髪」と書けば、付喪神は「白髪」になる。

白髪になるほど長い間生きても、僕ら人間は完全にはなれない。百に一つ足りない。思い通り生きることなんて、できないということだ。

元々、人間はすべて半端なものなのだ。生き急いだって、分かったような顔をしたって、無理やり人生を詰め込んだって。僕らは、神にも妖怪にもなれない。頑張ったって悩んだって苦しんだって、出ない「答え」もあるのだ――そんなことを伝えているように思える。

だったら何も、焦って生きる必要はないんじゃないか。せいぜい半端ものなりに、「人間」という器を大切に、長い年月をかけて磨くのもいい。

「人間」というあなたの器を、どうか粗末にせず大事にして欲しい――。

焦らず。騒がず。ただ生きていればいい。長く生きることだけでも「意味」は生まれる。

付喪神を通して古人たちが、あくせく生きてる現代の僕らに、そう語りかけているような気がする。