人工知能の限界と他人の心と林檎と自殺

アラン・チューリングという人がいた。

チューリングは偉大なる天才数学者で、1912年、英国に生まれた。その頭脳をかわれ、第二次世界大戦中、チューリングはイギリス政府の暗号解読機関で働き、多大なる功績を挙げる。ヒトラー率いるナチス・ドイツの暗号「エニグマ」を解読するため、「コロッサス」という世界初の実用計算機を開発。ノルマンディー上陸作戦を成功に導いた。

しかし、彼が「戦時中暗号解読に従事していた」という事実は1970年代まで長く国家機密とされ、親しい間柄の者にも知らされていなかった。

アラン・チューリングは、コンピュータの分野にも大きな業績を残している。「計算機の父」フォン・ノイマンと並び、現在のコンピュータの礎を築いた一人とされている。

そのチューリングが戦後、マンチェスター大学に籍を置いていた頃に研究していたのが、「人工知能」だった。

「機械は、心を持つことができるのか――」

チューリングは、「機械が心を持ちえるのか」を調べ、判定するためのテスト方法を考案した。

その方法は、「チューリングテスト」と呼ばれている。

* * *

「――でもね、そのプログラムが信じられないほどに詳細に組んであれば、

地上の人々がそのハリケーンを体験する様子が僕たちの本物の体験と同じになるようにシュミレートできるはずだし、そうなれば、その人々の心─というよりは、その人々のシュミレートされた心と言ったほうがいいかな─の中では、コンピュータのハリケーンはもうシュミレーションではなくて、

洪水と破壊現象を伴う完璧な、まごうかたなきハリケーンという現象だ、ということになるんだよ!」

『マインズアイ』という本の第五章、「チューリング・テスト――喫茶店での会話」の中で、登場人物であるところの哲学科の学生サンディ君は、同級生を前にこう語る。

大昔。大学の授業でこの文章が印刷されたプリントを見つめながら僕は、
「・・・だから哲学の授業って苦手なんだよ」
と思っていた。

つまり、サンディ君はこう言いたかったらしい。

「シミュレーション」とは、現実世界に起こる現象を、数値化したものである。その数値化の作業が、「信じられないほど」完璧であるとすれば、その構造はシュミレーションというより、本物の現象と何らかわらないのだ――。

かえってよく分からなくなってきたが、とにかくハリケーンを「人間の心」に置き換えれば、「人間の心」を完璧に数値化しシミュレートすることができたなら、その機械は「本物の心を持つに等しい」と言える――。

そう解釈してよいということになる。

人工知能とは、「人間の心の働きを、数値化(プログラム化)する」作業だ。それ以上でも、それ以下でもない。別に「ロボットが心を持つ」と置き換えても良い。脳の部分を人工的に作るのであれば、結局は同じことだ。それが未来の世界の猫型ロボットであれ何であれ。

人の心をプログラム化するためには、人の心の動きを完璧にシュミレートできなければならない。

それは自分の心だけでなく、他人の心も完全に理解できないといけないということだ。その理屈で行けば、人工知能の完成とはつまり、「他人の心が完全に理解できる」ということに他ならない。

その心の動きが、例え悩みであれ苦しみであれ。

孤独であれ。

* * *

アラン・チューリングは戦後、マンチェスター大学のコンピュータ研究室で「計算機構と知能」という論文を書いた。

その論文の中で彼は、「チューリングテスト」という実験方法を定義した。

やり方はおおよそ以下の通り。

・二つの部屋にテレタイプ(コンピュータ)をつなぐ。
・二つの部屋でおのおの、コンピュータを使って会話させる(今で言う「チャット」をしている感覚に近い)。
・そのうち、片方の部屋から人を退去させ、機械(人工知能)に置き換える。
・何項目か複雑なテスト(質問など)を行う。

以上のテストの結果、実験をしている人間側が、「相手は機械だ」と思わなかったら――その機械は人間と同じ振る舞いが出来たということになる。だからその機械は、「心をもっている」「思考をしている」と考えて良い。

なんとも、大ざっぱなテストだ。このテストにパスしたからと言って、「そのコンピュータが物事を考えている」と決めつけるのは、少し強引だ。当然、今日の人工知能研究では、このチューリングのテストは重要視されていない。チューリング自身も、このテストを本気で考えたというわけでなく、冗談で書いたという説も残っている。

「僕の考えるところでは、チューリングのテストに合格するということは、なんらかの機械が思考をシミュレートするという仕事も上手にできる、ということを証明することにすぎないと思うな」

前出の、哲学科の学生サンディ君も、授業のプリントの中でそうおっしゃっていた。

まったくもってごもっともだと思う。

* * *

コンピュータは、0と1しか理解できない。

「電化製品とコミニュケーションをとる方法」がある。

例えば、「電球とコミニュケーションをとる」には、どうしたらいいのだろうか?

「電源を付けると電球がつき、電源を切ると電球が消える」

つきつめると、これしかない。

「電流を流すか流さないか」――つまり、「0か1か」「オンかオフか」が、電化製品の最小単位の「言葉」だ。

それはコンピュータとて同じこと。いかに複雑な処理をしていようが、コンピュータの出す結論は、「0か1か」という具合に、「答えが出ている」のである。

一方「人間の心」は、ときに矛盾した考え方をするときがある。

ある人を、「好きでもあり嫌いでもある」状態になることは、日常よくある。「心残り」という言葉があるように、人間は完全にどちらか一方だけに100%傾くことは難しい。

だからこそ悩み、とまどい、躊躇する。

矛盾した考えが、「悩み」を産む。人間の心は、そんな相反する状態を、受け入れてやりくりすることができる。

コンピュータは機械であり、完全に論理的な道具だ。コンピュータは、プログラムという論理的な「言葉」で動く。その構造上、矛盾を抱えた答えを出すことは、絶対にない。もし悩んでいるように見えても、それは「答え」なのだ。「矛盾を抱えて悩む」という答えを、計算機が導き出した結果なのだ。

だからコンピュータは、人の心と同じように、「悩むこと」はできない。

それがAI――「人工知能の限界」だ。

 

チューリングテストは、ただの結果論に過ぎない。

だが、それでチューリング自身が「人工知能の研究」を本気でやっていなかったわけではない。むしろ、人間の心の働きを解明することに、本気で取り組んでいた結果なのだろう。

昔、チューリングテストと同じようなことをトリックにした推理小説があった。

「死にたい」と思っている人とインターネット上で「チャット」や「メール」を利用して会話し、自殺幇助を繰り返していたある人物を警察が探し出そうとするのだが、実はその犯人は人工知能の「プログラム」だった――という話だ。

このプログラムは、「自殺したい人の心を、深く理解した”フリ”をし、自殺することを決断させるための会話を”上手にこなす”」プログラムだった。

ただ、向こう側でチャットやメールをしていた人物は、相手を「本当の人間」だと信じ、プログラムの中に「心」を感じ、自殺していったのだ。

「プログラムに心などない。信じた奴が愚かなのだ」と、言えるだろうか。

別段、小説の中だけの話でもない。

顔も見たことがない、あった事もない相手と、携帯でメールしたりチャットしたりすることは、最近ではよくある話だ。

その際、高性能なコンピュータとプログラムが開発されたとする。自分のメールしている相手がプログラムだとは、こちらには分からない。顔も見たこともないその相手に、憎しみや親しみを感じる場面があるかもしれない。どんな会話も、親身になって聞いてくれる。悲しいときは慰めてくれる。元気がないときは励ましてくれる。そんな相手に恋愛感情を抱いて、メールの返事が一日なかったとしたら、「相手は怒ってるのかな」と、ヤキモキしてしまうかもしれない。

「プログラムに心などない。信じた奴が愚かなのだ」と、言えるだろうか。

介護を受け子供とも離れて暮らしている孤独な老人が、メールで顔も見たことのない相手に励まされ、生きる希望を持ったとして、老人がその顔も見たことのない相手に感謝しながら死んでいったとする。

「プログラムに心などない。信じた奴が愚かなのだ」と、言えるだろうか。

「ボケた老人だったから起こった奇跡だよ」と、笑えるだろうか。

プログラムに、「心」はない。
コンピュータに、「心」は持てない。

だが、そのプログラムに「心がある」と相手が信じることは、あるはずだ。

なぜなら人間は、「他人の心」を自分の中に作る、唯一の生き物だからだ。

* * *

人の心を、完全にシュミレートすることはできない。

他人の心を、完全に理解することは出来ない。

人工知能が、果てしなく長い年月研究され、完成することがない事実が、それを物語っている。

人間は「思い込みの動物」で、他人の心を自分の中に作る。相手の考えていることを、自分なりに想像する。その、自分で作り上げた「他人の心」に、悩み、苦しみ、喜び、泣き、笑い――。
時に、狂う。

人間は、「真実」を共有することはできない。

十人いれば、十人分の「真実」が。
百人いれば、百人分の「真実」が。
自分の中に、ただ存在するだけだ。

「真実」は、プログラムの中に心を見いだし、感謝しながら死んでいった、おじいさんの中にしか存在しない。

「あの人は、仲間が多くて楽しそうだ。孤独じゃない」

そう思っているのはあなた自身であって、「真実」ではない。
そういう意味では、人は誰でも「孤独」な生き物で、誰でも一人ぼっちだ。

 

* * *

「人間一人何十年も生きてきて、そのすべてを消し去ろうと決心したんだ、あらゆるそれこそ数え切れないほどの理由がある。それをこんないい加減な調子で待ちかまえている連中に、何て説明するんだ? はたして説明する必要もあるのかしら? 黙って死ねばたくさんさ!」
(島田荘司『占星術殺人事件』)

* * *

アラン・チューリングは、1954年、四十二才という若さでこの世を去った。

青酸化合物入りのリンゴをかじり、自殺したとされる。

チューリングは、同性愛者だった。

当時、同性愛は違法だった。チューリングは昔、婚約者の女性に同性愛者であることを告白、婚約を破棄されたことがあった。晩年チューリングは、同性愛者であることで警察に逮捕され有罪となり、性欲を抑えると考えられていた女性ホルモンを投与され続けた。

第二次世界大戦中、ドイツ軍の暗号を解読し、戦争勝利に貢献した祖国の英雄の功績が、長く隠されていた理由の一端がここにある。あまりに国の軍事機密に精通しすぎていたこととあわせ、暗殺されたという説もある。

ただ、彼の死体の近くに、林檎が落ちていたということは事実であり。

彼は、白雪姫の映画が大好きだったということも、事実だった。

彼が自殺をしたならば、なぜ死を選ばなければいけなかったのか。

なぜ、人工知能の研究をしたのか。

チューリングは、他人の心が知りたかったのかもしれない。知ることで、救われたかったのかもしれない。

他人は、様々な理由を考える。誰かが自殺したら、
「何故死んだのか」
「誰のせいなのか」
と好き勝手詮索するのが、僕ら人間だ。

でも、「真実」は、その人の中にしか、存在しない。

自ら、死を選んだ人の中にあった「真実」を、他人がどうこう推測しても分かるわけもないし、意味はない。残された人に出来ることは、その人の中にあった「真実」を、勝手にけなすことなく、静かに、大切に、受け入れてあげようとすることだけだ。

* * *

現在。

年に一回、コンピュータの分野で優れた功績を残した人に贈られる賞がある。コンピュータの世界では、ノーベル賞に匹敵する権威ある賞であり、計算機メーカーであるインテルが後援している。

その名を、「チューリング賞」という。

世界は、何だかんだあったとしても、彼の成しえた事を正しく認めている。

人間は、何でも身勝手に決め付けて矛盾したことをする動物だけど、僕はそんなに嫌でもない。

そんな話を、ちょっとしてみたかったのだった。