「俺はもう、キムラヤのパンを食いたいときに食うことができない。それが残念で仕方がない」
東京へ転勤していった兄が、無念の表情で僕に言った。我が兄ながら、どうも言うことがいちいち大げさだ。
東京の方が美味しいパン屋はいくらでもあるだろうに。あそこは確かに美味しいのかもしれないけど、僕はあそこが飛び抜けて特別だとは思えない。味覚なんて、思い込みに過ぎないよ。
僕がそう言うと、
「あそこ以上に美味いパン屋はない。お前は冷たい奴だ」
と一喝された。
* * *
キムラヤとはうちの近所のパン屋であり、僕らの中では長いこと、パンの「デファクトスタンダード」であり続けた。
物心付いてからずっとそこのパンしか食べたことがない訳だから、アンパンといえばその店のゴマが降りかかっているこしあんのアンパンであり、サンドイッチも食パンも焼きそばパンも、キムラヤのパンと同じものが日本中で売られ、食べられているものと思っていた。
コンビニなどまだない時代である。
キムラヤでは、パン生地にカレー粉を練り込み、中にウィンナーソーセージを入れてカラリと揚げたパンを「カレーパン」と呼んでいた。僕はそれが大好きで、だからずっとカレーパンとはそういう食べ物だと信じていた。中にカレーペーストが入っているものを「カレーパン」と心から呼べるようになったのは、中学校に入ってからの話だ。なかなか現実を認めることができず、敗北感もあった。
一番のお気に入りは、カツサンドだった。
キムラヤのカツサンドは、カツの衣が薄く肉が厚い。パンは良い具合に薄く、カツの味を邪魔しない。
中学時代、昼食がパンの時は必ずそのカツサンドを買っていた。カツサンドには二種類あって、「デラックス」という二十円高いものがあった。デラックスと言っても中にレタスが一枚入ってるかどうかというだけなのだが、中学生の僕にはデラックスを買うのは贅沢な気がして、なかなか手が出なかった。
レタス一枚だけで二十円の違いはどうかなあ、となぜ当時思わなかったのか。今思うと不思議だ。
何年ぶりかに、キムラヤのカツサンドが食べたくなった。
当たり前のようにあり続けるのだろうと思っていたキムラヤは、昔より活気がないように見えた。
カツサンド片手にレジへ行くと(やはりデラックスは買えない)、おばちゃんは僕の顔を覚えていて、パンを一つおまけしてくれた。
なんだかひどく、申し訳ない気持ちになった。
「東京へ行ったうちの兄が、ここのパンが食えないって嘆いてましたよ」と伝えると、あらうれしいと、おばちゃんは照れくさそうに笑った。
いつも一言多くて失敗する僕だけど、たまには余計な一言が役立って欲しいなと思った。
帰り際、缶ビールを一つ買った。
家に帰って、カツサンドを頬張る。薄いパンを通過して、衣のサクッとした歯触りの次に、少し堅めの豚肉の味がソースと絡まって口の中に広がる。味は全く変わってない。
ついでビールをグビグビ飲んだ。
中学時代には決して味わえない美味さだなと顔がほころぶ。同時に、少し後悔した。
どうして自分はずっとこの美味しさを忘れてたんだろう。あまりに当たり前に近くにありすぎて、見えなくなってたんだろうか。
昼のぽかぽか陽気の下に食べるカツサンドとビールと想い出は、格別に兄の言うとおり美味かった。
* * *
そんなことを僕の友人に話したら、笑い話になった。
「そうそう。俺もカレーパンにはずっとウィンナーが入ってるもんや思てた」
なんだ。お前もそう思ってたのか。
あまりに長いつきあいすぎて、僕らの中で当たり前として存在していたことを、いちいち確認する必要もなかったのだろう。
「カツサンドのデラックスは、レタス入ってるだけやねんな。そんで二十円も高いねん」
ひとしきり笑った後、友人は言った。
「でも、そのレタス入っただけのデラックスは、普通のより確かに美味かったよなあ」
そう。それだけなのに、確かに美味かったのだ。
初めて会った人との間に、想い出は存在しない。
だから僕らは多くの言葉で、相手に色んなことを説明しようとする。そのうち言葉が多すぎて、相手に誤解され、すれ違い、言葉では伝わらないものを実感して焦り、時に悲しい思いをする。
親にしろ兄弟にしろ友達にしろ。好きであろうが嫌いであろうが同じ空間で同じ時間を過ごした人々の間には、同じ想い出が横たわっている。
だから想い出の中の食べ物は、美味しいのかもしれない。
自分の好きな人には、僕が美味しいと思ったものを、食べてもらいたいといつも思う。例え相手にとって美味しくても不味くても、それはやがて想い出になる。
その想い出はきっと、嬉しくて美味しい。
そういうものをゆっくり積み重ね、人と人はつながっていくのだと。そう願いたい。