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小粋な言葉の返し方。

先日、広大な公園のどこかで、車の鍵を落とした。

自分では落としたことに気がついていなかった。何故分かったかと言うと、「車の鍵落とした人いませんかー」と、声を張り上げ落とし主を捜していた若夫婦と子供が、目の前にいたからだ。

ポケットを叩いたら、案の定、鍵がなかった。二つに増えていたらどれだけ良かっただろう。

「すいません。その鍵、見せてもらえませんか?」

確かに、自分の車の鍵だった。

運が良い。良いけども、この運は「マイナスを0に戻すための運」である。できれば「0からプラス加算される運」で使いたかった。

「本当にありがとうございました。帰れなくなるところでした」と僕。

「良かった。滑り台の所に落ちてたんです」と奥様。

「子供と滑ったとき、落としたのかも。助かりました。あの、何かお礼でも」

若夫婦は笑顔で僕の申し出を断り、その場を後にした。

自分の運も良かった。だけどこれは、この人たちの親切心なしには成立しなかった「運」だ。公園内の人たちに、声を張り上げながら、落とし主を探して回る。中々できることではない。管理所に届けて、後は知らぬ振りで全然いい。

断られたとはいえ、何もしないのは座りが悪い。

駐車場までとって返し、財布を持って、自動販売機へ。嗜好が分からないので、当たり障りのない飲料を適当に購入。こういう時、本当は相手の喜ぶものを買ってあげたい。断られないことを考慮して、最大公約数的に購入するしかないのが悔しい(お茶系が多くなってしまうのは仕方がない)。

今度はこちらが探す番なのだが、鍵を拾ってくれた家族は、あっけなくすぐに見つかった。

「すいません、これ飲んで下さい」

「いやいやいやいやいやいやいやいや!」

ユニゾンで叫んでいた。いっせーのーでの掛け声もなく。仲の良い夫婦だ。奥さんの右手には金麦が握られていた。
「あ。金麦。良いですねー」
思わず口に出てしまったが、後から考えるとこれは良い言葉のチョイスではなかった。

「こっちがあげたかっただけだから。これはこっちの我儘だから」とか。「あちらのテーブルのお客様からです。お代はいただいております」とか。「あっちの滑り台に落ちてたんだけど、山分けしようと思って」とか。「この前読んだ新聞でね。出町柳の王将の名物店長が言ってたの。『自分が他人にしてきたことは、巡り巡って、自分の家族や子供に返ってくる。そう信じて日々生きてる』って。いい言葉でしょ? だから貰ってよ」とか。

こういうとき、親切に見合う小粋な言葉を、さっと返せる大人になりたかった。

現実は、薄ら笑いをうかべながら、ドライバーである旦那さんが我慢しているのに悪いなと思いながら飲んでいるかもしれない奥さんの金麦を揶揄したかのように受け取られかねない、見たまんまのセリフしか吐けなかった。
「どうもありがとうございました!」
夫婦のそんな言葉にも、無言で手を振るしかできない僕がいた。

何だか分からない複雑な感情に打ちひしがれる僕に向かって、当時上の吊り橋を渡っていたという奥さんと娘が言った。

「あれ、もしかしたら父ちゃんの鍵かもなー、って言うててん」

「父ちゃん、おっちょこちょいやからなー」

『追い打ち』という言葉を、この人たちは知っているのだろうか。

5歳の娘と父ちゃんのふくらはぎ。

娘とも、もう5年の付き合いになった。

娘にとって僕は「父ちゃん」という役割だが、唯一無二のその役割を5年間全うしてきたことになる。飽き性の自分からすると、よく続いたものだと思わざるを得ない。

たまに保育園(正式にはこども園)に迎えに行くと、去年ごろからおともだちの前でだけ、「パパ」と呼ぶようになった。

帰りの車の中で、

「・・・さっきのパパって何?」

「父ちゃんのこと」

「父ちゃんって呼んだらええやんか」

「いいの!」

ムクれる姿は、もういっぱしのレィディである。

使い分けているのだ。他の子が「パパ」と呼んでいる中、自分だけ「父ちゃん」で貫くのは難しいとみえる。

他人の呼び方を、周囲の状況に照らし合わし、自分がまわりから干渉されないレベルで落ち着かせようとする、娘なりの防衛策であろう。

周囲の空気を読むのは良いが、自分のオリジナリティを皆に認めさせる胆力も、時には必要だ。一般的な人生においては、もしかしたらこういう場面でも臆することなく「父ちゃん」で貫く子の方が大成するのかもしれない。

我が子だけに「必要以上に周囲の空気を読もうとする性質」が引き継がれてしまっているのかもと、少々心配になる。

再び、車の中。

「父ちゃん」

「なんや」

「帰ったら、絵本読んでや」

「分かった。何冊?」

「10冊」

「多い。母ちゃんに読んでもらえ」

「嫌や! 父ちゃん!」

「父ちゃん」と呼ぶ意味と、「パパ」と呼ぶ意味。

彼女の中では、純然たる違いがあるはずなのだ。

何の心置きもなく「父ちゃーん!」と叫び、泣きわめき、満面の笑みで笑いかけてくる。

その内、「父ちゃん」と呼ばれなくなる日がくるかもしれない。

それはそれで寂しかったり、悲しかったりするのだろうが、そんな「親の感傷」など、この娘の成長には何の関係もなく、そもそも煮ても焼いても食えない。

僕のあぐらにちょこんと座り、ライナスの毛布であるガーゼケットを持ち、僕が毎週図書館から借りてくる絵本を読み聞かせる。長年の決まりきったこのルーチンも、あと何年続くだろう。

大きくなるにつれ、あぐらに乗せ続けると足に負担がかかるようになった。またジムに行って、ふくらはぎを鍛えなくては。

「なあ、娘」

「なに、父ちゃん」

「父ちゃんの膝に、いつまでこうして乗っかるつもりや」

「うーんと、えーと。8さいまで!」

「何で?」

「8さいがええから」

「8さいがええんか」

「うん」

「じゃあ、そうしようか」

「うん」

自分のふくらはぎが、他人の役に立つなんて、一人で生きているときは考えられなかった。

あと3年、娘を軽々と支えるために、スクワットをしなければならない。

2歳の娘について。

娘が生まれて、2年がたった。

「早いね」と言われれば早いような、「まだそんなもんか」と言われれば、まだそんなもんのような。

彼女は幼いながらに立派な自我を持ち、何でも自分でやろうとし、自分でできないことは積極的に「父ちゃんこれやって!」と僕に頼んでくる。女性的な性質を既に見せ始めている、と書くと多分怒られるだろうからやめておく。

そのくせ、知らない人の前に来ると、借りてきた猫のようにおとなしくなる。知らない人がいなくなると、また身内に安心して自我を爆発させる。

親ソックリだ。というか死んだ母ちゃんそっくりだ。

遺伝をあまり意識したことはないけれど、自分の性質を常日頃から内省したり、反省している人は、少なくとも我が子を理解する上でその「考えたこと」はなにがしか役に立つのだと思いたい(でないとやってられない)。

少し、申し訳ないような気がしている。

自分のことをよく分かっているようで、その実思い込み過ぎて間違いの多いのが人間なので、あくまでも「役に立つ」レベルの話になるが、全くの他人を育てるよりも、自分のコピーを育てるという事なので、幾分容易になっているのかもしれない。

自分のことを勘違いすると、子育ても上手くいかないのかな、と思ったりする。

日々、機嫌よく生きている娘を見ては、自分が悩みながら生きてきた経験が、少しでもこの子の役に立って欲しいなぁと切実に思う。

健康に生きてくれるだけで御の字だ。でも、健康に生きれなくても、子供は子供で変わりはない。健康でいてくれればとても嬉しい、という親の希望でしかない。

結局のところ親にできることといえば、色々なものにただ祈ることしかないのかもしれない。